世界初の「車いす単独の国際マラソン」として
産声を上げた大分国際車いすマラソン。
以来40回にわたり、本質を変えることなく続けられてきました。
出場選手たちは、変わることのない“走る楽しさ”を感じながら
それぞれの夢や目標に向かって走り続けてきました。
一方で、大会の規模や選手のサポート体制、レーサーの性能など
出場選手を取り巻く環境は、進化の一途をたどっています。
その後押しを、私たちHondaも担ってきました。
今回、大会40回を機に、大分国際車いすマラソンとHondaの歩みを、
出場したアスリートとレーサー(※)開発者ら「TEAM Honda」の仲間たちと共に振り返ります。
そして、アスリートたちが躍動した熱いレースもレポート!
※車いす陸上競技用の3輪の車いす
出場選手と振り返る
大分国際車いすマラソン
渡辺習輔選手と西田宗城選手に
大会振り返りインタビュー
ホンダ太陽アスリートクラブ所属。
大会への出場は24回。
ハーフの部で過去6度優勝
Hondaサポート選手。
初出場は2007年の第27回大会。
以来、14回連続出場
レーサーとアスリートの
レベル
は年々アップ!
初参加した第16回大会は600名弱の選手が参加し、誰もが気軽に参加できる雰囲気でした。私は競技を続けるうちに、みんなでスポーツをするのが楽しくなり、大会での順位が上がるにつれ、より本格的に取り組むように。年々レーサーは進化し、世界パラリンピック委員会等の公認大会となったことから参加選手のレベルも上がってきています。
アットホームな雰囲気が大会の
代名詞
レースが終わると、ゴール地点となる大分市営陸上競技場の芝生の上で、選手同士で健闘を称え合い、いろいろと話をするんです。その時間がとても楽しくて。そんなアットホームな雰囲気が、この大会の一番の魅力だと思います。初参加した頃から、その雰囲気は変わっていません。海外選手からも“故郷に帰って家族に会うような気持ちで参加している”という声を聞いたことがあります。
沿道からの温かい声援は
変わらない
初出場した時から観客が多く、温かさを感じました。その印象は今も変わりません。東京マラソンに比べ、観客の人数では負けますが、応援の力は同じぐらいあると感じています。声援を受けると、休んでるわけにはいかないと思って、反射的に漕いでしまうんです(笑)
回を重ねる度に地域に浸透し、
愛される大会に
私が車いす陸上を始めた頃は、練習していて“危ない!”と言われることがあり、まだ地域の方から理解を得られていないと思うこともありました。そんな中でも、先輩アスリートたちが夢や目標を持って競技を続けてくれたおかげで、次第に地域に浸透し、愛される大会になってきたのです。出場回数を重ねてきた今、その環境を次の世代へきちんと渡していきたいと考えています。
開発者と振り返る
レーサー開発の歩み
歴史を振り返りつつ、
開発に携わってきた技術者にインタビュー
「レーサーをつくる、安心安全を担保する、
選手の能力を高める、の3つが使命」
昔と今を比べると、レーサーは大きく変わってきました。第1回大会の写真を見るとほぼ常用の車いすに見えますが、2年後には前輪が少し前に出て、さらに10年も経つと前輪はかなり前方に移動してきています。障がい者スポーツは自分の中にある機能をいかに活かすかがポイントですので、レーサー形状の変化は体の可動域を最大限に活用できる姿勢となるように進化させた結果なのだと思います。
Hondaも選手からの要望を受けてレーサーを進化させてきました。また、レーサーの損傷を調べる「非破壊検査」も交えたメンテナンスで選手の安心安全を守り、レーサーを漕ぐ力を見える化する独自のシステムで選手の能力アップに寄与するなど、多角的なサポートの研究も行っています。レーサー、メンテナンス、選手能力、の3方向で進化を推し進められれば、さらに多くの人に競技の魅力を感じてもらえると考えています。私の夢は、技術の面から、車いす陸上の裾野を広げていくことです。
「選手の喜びが私たちの原動力。
選手の姿で世の中に感動を与えたい」
レーサー開発に2013年から携わり、これまでにHondaのレーサーは大きく変わりました。ダンパーをはじめステアリング周辺パーツをフレームに内装して操縦安定性を上げるなど、業界としては画期的な変革です。また、レーサーの「メンテナンス」においても、昔と今では環境が大きく変わっています。以前は選手たち自身が自己責任でメンテナンスを行っていましたが、私たちが2017年大会から会場近くでメンテナンスサポートを行い、安心してレースに臨める環境をつくってきたことでより好成績を収めてくれるようになりました。国内外の選手に喜んでもらえることが私たちの原動力であり、選手の一生懸命な姿が世の中に感動を与えることが私たちの理想。その実現のために、これからも親身なサポートに努めていきます。
レーサー開発の歩み
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1993年
初めてのレーサーが完成ホンダ太陽の「車いすレーサー研究会」が陸上競技用車いすの自主製作を目指し、その活動に本田技術研究所の技術者が協力。わずか1年でオールアルミ製レーサーをつくりあげる。
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2000年
本格的にレーサー開発を推進本田技術研究所が選手からのフィードバックを受けながら試行錯誤を繰り返し、レーサー開発を推進。2002年にはホンダ太陽が本田技術研究所の支援を受け、世界初のフルカーボンボディレーサー試作1号車を完成させる。
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2013年
量産開始ホンダR&D太陽と本田技術研究所、八千代工業の3社共創体制となったことで、カーボンフレームを採用した「極」の量産技術を確立。2014年には量産モデルの「極<KIWAMI>」を、2015年には「挑<IDOMI>」の生産販売を開始。
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2019年
「翔〈KAKERU〉」誕生更なる高みを目指した「翔<KAKERU>」を発表。カーボン製モノコックフレーム、フロントフォーク、ディスクホイールを装備し、これまでにない形状のフレーム形状とステアリング機構を採用。
大分国際車いす
マラソンレポート
2年ぶりの国際大会!
アスリートと観客の熱気が大分路を包む!!
TEAM Honda 出場選手紹介
大阪府
海外のトップ選手も出場。
西田宗城選手が3位で表彰台へ!
本大会は、市街地を縫うように走っていた従来のコースから、直線主体のフラットなコースへと一新。東京の国際大会の金メダリスト、マルセル・フグ選手ら海外選手を含む131名が出場した。
午前10時――号砲が鳴り響き、選手たちは勢いよくスタート!沿道では多くの観客が力強い拍手で選手たちを応援。アスリートたちの情熱と観客の熱いエールにより、レースは第40回記念大会に相応しい盛り上がりを見せた。
TEAM Honda出場選手からは、マラソンT34/53/54男子の部で西田宗城選手が3位、河室隆一選手が8位に。ハーフT34/53/54男子の部では渡辺習輔選手が4位、佐矢野利明選手が8位、山口修平選手が13位に。トップアスリートから一般参加の選手まで、すべての選手が一生懸命に走る姿と、コロナ禍でも希望の灯をともし続けて開催を実現した大分国際車いすマラソンは、多くの人たちに感動と勇気を与えたはずだ。
大会結果
3位 | 1:27:19 | 西田 宗城 |
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8位 | 1:35:51 | 河室 隆一 |
4位 | 0:47:14 | 渡辺 習輔 |
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8位 | 0:48:55 | 佐矢野 利明 |
13位 | 0:49:07 | 山口 修平 |
大会を終えて
表彰台を狙っていたので達成できて
嬉しい!
西田 宗城 選手
大分国際車いすマラソンで表彰台に立つのは今回が初めて。レーサー「翔〈KAKERU〉」とうまくマッチできたレースだったと思います。今年は拍手だけでしたが沿道から多くの方の応援がすごく力になりました。今後の目標は、来年3月の東京マラソンをはじめ世界6大メジャーマラソンで表彰台に上がること。2024年のパリの国際大会の選考も始まるので、タイムも意識しながらトレーニングを積んでいきます。
走る機会をいただいたことに感謝
渡辺 習輔 選手
大会出場は1年ぶり。他の選手の仕上がり具合などが一切分からない状態でのレースは不安でしたが、ベストを尽くせました。さまざまな対策を講じながら大会を開催してくれた大分県、大会事務局の方には本当に感謝しています。今後の目標は、体力の続く限り大会に出場してレースを楽しむこと。また、後進の育成に力を入れ、本大会ハーフで優勝できる選手を育てていきたいです。
トラックでのスピードという自分の
強みが出せた
佐矢野 利明選手
ケガで練習できなかった影響や車いす短距離(100m)をメイン種目にしているため、スタミナ不足を感じましたが、最後にトラックに入ってから順位を上げることができ、自分の強みをしっかり出せたと思います。また、地元の知り合いやTEAM Hondaの声援はとても力になりました。次は神戸で開催される世界選手権での好成績を目指して、体づくりから始めます。
夢に挑むアスリートの駆動力に
Hondaが車いす陸上を支援し続ける理由。
すべてはアスリートの笑顔とベストパフォーマンスのため。
そして、その姿を見た人に多くの感動を届けるためです。
「夢に挑むアスリートの力になりたい」
Hondaはこれからも大分国際車いすマラソンと
夢に向かって走り続けるアスリートたちを
応援してまいります。