16戦10勝、NA初年度も圧倒的戦績

McLaren Honda MP4/5

マクラーレン・ホンダMP4/5

マクラーレン・ホンダMP4/5
MP4_5

激化するセナプロ僚友の激闘
他陣営を凌駕する優位ぶりで載冠

1989年のF1世界選手権において16戦10勝を記録し、ドライバー、コンストラクターズのダブルタイトルを獲得したマクラーレン・ホンダ MP4/5は間違いなく名車である。ただ前年のMP4/4が16戦15勝だったため、比べられるといささか旗色が悪く、それゆえ「2年目のマクラーレン・ホンダ 苦戦の象徴」のような採り上げ方をされることも少なくはないのだが、いかなる基準に照らしてみてもMP4/5は名車といえよう。

1989年はF1のエンジン規定が激変した年として記憶される。ターボエンジン禁止、全車3.5リッター自然吸気(NA)エンジン搭載──。1.5リッターターボ最終年の前年(88年)、タッグ結成初年度に圧倒的な強さを誇ったマクラーレン・ホンダではあったが、89年はNAでの仕切り直し、リスタートのシーズンだったのである(87~88年から3.5リッターNAを搭載していた陣営もあった)。
Hondaは89年に向けてV10のRA109Eをスタンバイ。将来的にはV12への発展を視野に入れつつ、高回転・高出力思想に基づいた気筒数チョイスであった。当時は片側5気筒になることで排気管の取りまとめに自由度を欠くのでは? などの疑問も呈されたが、RA109Eはエンジン規定が大幅変更されてもHondaが最強であることを証明した。ターボ全盛期には1000馬力を超えるスペックを誇っていたことを考えれば、全車NA初年度の700馬力に届かないレベルの数値はもの足りなく思えるが、Honda製エンジンの対他的アドバンテージは不変だったのだ。V12のフェラーリ、そしてこの89年からF1に復帰したルノーのV10を積むウィリアムズが対抗してはくるが、前年同様にアイルトン・セナ(88年王者)&アラン・プロスト(85&86年王者)という最強ドライバーの布陣を擁するマクラーレン・ホンダは、後続との間に前年ほどの圧倒的な差こそなくなったが(だから「2年目は苦戦」ともいわれる)、89年も最強であることに変わりはなかったのである。

実績に相応しい評価を得にくいMP4/5だが、凄すぎる先代との比較以外にもその理由は存在した。それは、技術的なトライに乏しい面があるマシンだったことだ。この時期のマクラーレンはHonda製エンジンのパワーに絶対的な信頼を置くあまり、マシン開発に関して保守的過ぎる傾向があったことは否めない。MP4/5は、NAエンジン搭載のためにエア吸入口を最も効率のいい位置であるドライバー頭頂部に設置するなどの“変更”を施した、MP4/4のNAエンジン版、という印象を拭えないマシンだった。フェラーリがセミオートマチックトランスミッションを採用したり、空力やサスペンションにもコーナリングスピード重視の思想で革新策を採っていたのに対し、「ターボでもNAでも、Hondaのエンジンパワーを活かせるマシンにすればいい」というのが当時のマクラーレンの考え方のようで、NA時代はエンジンに頼れなくなるからシャシーのコーナリング性能を突き詰めねばならない、という発想は、この時点ではまだなかった。
ただ、こうした批判的な見方は後世であればこそのものともいえるだろう。成功を収めている以上、無理に革新路線を採る必要はなく、保守的な方向で熟成を進めるのは道理だ。実際、マクラーレンはHondaのエンジンパワー頼みを基本軸にしながら、91年までダブルタイトルを4連覇するのである。
また、当時のマクラーレンにおける人事面を考えると、鬼才と呼ばれたマシンデザイナーのひとりであるゴードン・マーレイが市販ロードカー(マクラーレン“F1”)の開発に軸足を移しつつあり、89年車MP4/5の準備はマーレイの補佐役のひとりだったニール・オートレイが主に行なっている。このあたりにも、MP4/5が保守路線を採った背景が窺えるところではあった。

マクラーレン・ホンダMP4/5

セナとプロストは前年も激しく王座を争いはしたが、表向きは平和裏に振る舞っていた。しかし、この年は違った。序盤戦で確執の芽が生まれてしまったのだ。第2戦サンマリノGPでの「1コーナーでの順位を遵守し、前半は争わない」というあやふやな紳士協定の締結と破綻が発端となり、両者の仲は険悪化する。シーズン中盤以降はひとつのチーム内に別々のチームが存在するような状態だったともされ、セナとプロストは技術情報も互いのエンジニアを介してしか提供し合わなかったと伝えられる。プロストは夏場に翌年のチーム離脱を決め、セナは次第にF1界全体に対して心を閉ざしていくようになる。
それでもMP4/5は強かった。中高速コーナーの多いエストリルでの第13戦ポルトガルGPではフェラーリが新思想マシンの優位性を示しもしたが、シーズンの趨勢はマクラーレン・ホンダ最強のまま変わらなかった。第11戦ベルギーGPではセナ‐プロストの1-2フィニッシュでHonda製エンジン通算50勝が記録されるなど、第14戦までに10勝。コンストラクターズタイトル連覇は早々に決まり、あとは同門対決の行方が注目されることとなって、第15戦、鈴鹿での日本GP(53周)を迎える。

セナ6勝、プロスト4勝ながら、安定感で上まわるプロストが得点面では優位。当時のドライバーズポイントは16戦中11戦の有効制だったこともあり、状況は「セナが終盤2連勝なら自力逆転で連覇、それ以外の結果ならプロストが王者」という複雑かつ、ある意味ではシンプルなものとなっていた。
予選で超絶的なアタックを披露してポールを獲得したセナだが、決勝スタートでプロストに先行を許す。ここまでの速さではセナに一歩以上を譲っていたプロストが、土壇場の大一番で乾坤一擲の走りを見せ、レースをリードしていく。タイヤ交換を終えても順位関係は変わらない。勝つしかないセナに焦りが生じ始めていことは想像に難くなかった。

そして終盤47周目に、それは起きた──。
130Rコーナーでのスピードに優るところを活かしてプロストの背後に迫ったセナは、シケインのイン側を狙う。しかし、プロストも譲るはずはない。2台のマクラーレン・ホンダ MP4/5は、それを操る当人たちの意志には反して、まるで寄り添うように、一体化するかのように手足を絡め合いながら、静かに、走るのをやめたのであった。
鈴鹿サーキットの時間も止まっていた。大観衆はあっけにとられ、ことの顛末を見守る。マシンを降りるプロスト。懸命の再始動要請が実り、コース復帰を果たすセナ。そしてその刻、沸き立つ歓声──。

セナは翌周にピットイン、接触時に傷めたフロントノーズを交換する。その間にトップに躍り出ていたアレッサンドロ・ナニーニ(ベネトン・フォード)を51周目のシケインでパスして、セナはトップでチェッカーを受けた。
これでセナ連覇の望みは最終戦につながった、かに思われたが、セナはプロストとの接触後のコース復帰時にシケインを通っていなかったため失格処分となる。この結果、ナニーニが初優勝、プロストが3度目のタイトルを獲得したのであった(セナ側が失格裁定に控訴の意を見せていたため、最終戦オーストラリアGPで彼がリタイアした時点でプロストの王座が完全確定)。

マクラーレン・ホンダMP4/5

カーナンバー2のマクラーレン・ホンダ MP4/5は、プロストのマシンである。彼に味方する当時のFIA首脳らがセナを失格に追い込んだ等々の議論が渦巻いたシーズン終焉時、16戦10勝した戴冠車の存在はヒューマンドラマの影で忘れられがちになってしまった。しかし、あの鈴鹿での衝撃的なクライマックスにおいて主役のふたりが乗っていたマシン、という事実だけをもってしても、後世から見れば稀有なる名車といえよう。戴冠しつつも記録面では先代を超えられず、政争のおかげで存在感が薄れるなど悲運なところもあったが、今にして思うのは、これこそ記録にも記憶にも残るマシンだということである。

MP4_5

Spec

シャシー

型番
McLaren Honda MP4/5
デザイナー
ニール・オートレイ
車体構造
カーボンファイバーモノコック
ホイールベース
2896mm
トレッド(前/後)
1820/1670mm
サスペンション(前後とも)
ダブルウイッシュボーン
タイヤ(前/後)
12-13/16.3-13インチ
トランスミッション
マクラーレン製6MT
車体重量
500kg

エンジン

型式
RA109E
形式
水冷72度V10 DOHC
排気量
3490cc
ボア×ストローク
92.0mm×52.5mm
最高出力
685ps/13000rpm
燃料供給方式
Honda PGM IG

Detail

マクラーレン・ホンダMP4/5

薄く低いMP4/4と印象を大きく違えているのは、エアインテークがロールオーバーバー位置に変更されエンジンカウルの形状が変わったから。まだハイノーズ思想はなく、前後の巨大なウイングが“ホンダ頼み”から脱却できていないことを物語っている。

マクラーレン・ホンダMP4/5

ターボエンジンからNAエンジンへと変わったが、まだ高回転競争は始まったばかりの時期。レッドゾーンは11500回転に設定されている。ステアリングはパーソナル製で、付属のスイッチはラジオボタンのみと簡素。

マクラーレン・ホンダMP4/5

NA規定初年度の89年、HondaはRA109EというV10を投入。燃料総量規制はなくなり、ピークパワーも700馬力程度となった。Hondaはこの年、16戦で10勝を計上。各陣営横並びのスタートとなっても優位性は変わらないことを証明した。

マクラーレン・ホンダMP4/5

撮影車、コクピット内にあるシャシープレートには8号車と刻まれていた。同チーム内でふたつの陣営があるかのようなセナ、プロストの激闘は世に知られているとおりで、ともに最高の装備を要求したためシャシーは1年間で8基(以上)も作られた。政争もあったが、結果プロストが自身3度目のチャンピオンの座に就いた。