中嶋の激走とピケの奮闘が光った
ターボ最終シーズンのロータス
「ロータス」と言っても、Hondaの1.5リッター
V6ターボエンジンを搭載した100Tというマシンを1988年に走らせていたロータスは、2013年シーズンのF1を戦っているロータスとは異なる。1970年代に本格的なグラウンドエフェクトカーを初めて実戦投入するなど、F1界に数々の技術革命を巻き起こした稀代の名エンジニアにして、1960年代からスポンサーシップという概念を導入した名監督でもあったコリン・チャップマン(1982年逝去)。彼が創設した元祖ロータスのF1参戦期間は1958~94年であり、87~88年の2シーズン、この名門はHonda製エンジンを搭載してF1を戦っていたのだ。
87年はウィリアムズ、88年はマクラーレンと、自分たちと同じHonda製エンジンを搭載する同じ英国籍のチームが圧倒的なパフォーマンスでタイトルを掌中にする一方で苦戦を強いられはしたが、87年はアイルトン・セナ&中嶋悟、そして88年はネルソン・ピケ&中嶋と、当時のロータスはブラジル出身の超大物ドライバー&日本人初代フルタイムF1戦士という魅力的なドライバーラインアップを有していた。F1ブームの機運高まりつつあった時代の日本において大きな声援を受けて走ったのが、CAMELイエローも鮮やかなロータス・ホンダであり、88年の100T(RA168E搭載)は鈴鹿で中嶋が予選6位、決勝7位という健闘を見せたことによって、F1日本GPの歴史にもその名を深く刻んだマシンと言えるだろう。
ロータスはF1マシン以外のプロダクツにも通しでナンバーを振り当てているため、「100T」はロータス100番目のF1マシンではなくロータス100番目のプロダクツということになる(歴代プロダクツにはF1以外のレーシングカー等も含まれる。Tはターボエンジン搭載車に付く記号)。
前年型の99Tはアクティブサスペンションを年間フル採用した初めてのF1マシンとされるが、ロータスは100Tにはこれを採用せず、保守路線に回帰した。車高をなるべく一定に保つことで空力性能が安定的に発揮されることを主目的としたアクティブサス関連の技術は、この時点では未だ成熟領域に至っておらず、アクティブサス全盛時代の到来にはもう3~4年ほどの時間を必要としていたわけだが、先駆者ロータスも一旦そのコンセプトを棚上げし、100Tに関してはコンベンショナルなパッシブサスペンション機構に戻したのである。このことがマシン開発の継続性を欠くことにつながったのだとすれば、それが100T苦戦の一因だったのかもしれないが……。
Hondaの1.5リッター
V6ターボは、この時代の最強パワーユニット。89年からの全車3.5リッター自然吸気エンジン規定開始前のターボ最終年となったこの年(87年と同じく3.5リッター
NAとの混走)、マクラーレンMP4/4が16戦15勝することでもそれは明らかなわけだが、ロータスの方はカーナンバー1とともにウイリアムズから移籍した前年王者ピケをもってしても最高3位という成績に甘んじてしまうこととなる。
同じエンジンを積むマクラーレンMP4/4がHonda製エンジンのパワーを活かすために「低く、前面投影面積を小さく」というゴードン・マーレイ(マシンデザイナー)のフラットフィッシュ構想に基づいて設計されていたのに対し、ロータス100TはMP4/4に比べると大きくて太い印象が拭えないフォルムのマシンだった。アクティブサスの件や、エースがマクラーレンに移籍したセナからピケに交代した影響はあったにしても、マクラーレンより1年早くHonda製エンジンを得ていたのに、ロータスはそれを効果的に活かす方法を見つけることができなかったのである。厳しい言い方にはなるが、これは事実だ。F1という世界最高峰を競う場においては、そういった技術面の足踏みは即、成績に跳ね返ってくる。そして100Tの主任デザイナーであるジェラール・ドゥカルージュは、シーズン終了を待たずにロータスを去ることとなった。
ただ、ロータス100Tがまったくいいところなしだったかというと、そんなことはない。88年シーズンの流れを振り返れば、開幕戦ブラジルGPはピケ3位、中嶋6位でダブル入賞と、まずまずのスタートを切っている(当時の入賞は6位まで)。第2戦サンマリノGPでも、ピケはマクラーレン勢には周回遅れにされつつも、連続3位を得ている。
中嶋は市街地コースの第3戦モナコと第6戦デトロイトでは予選落ちを喫するなど苦しみもしたが、第4戦メキシコで大きな見せ場をつくった。ターボの利点が大きくなる高地での戦いで、自己ベストの6番グリッドを獲得。さらにはスタート直後の1コーナー進入で、ゲルハルト・ベルガーとミケーレ・アルボレート、2台のフェラーリの間を堂々と割って4位に浮上してみせたのである。残念ながらマシントラブルによるリタイアに終わるものの、シーズン前半のロータス100Tは、それなりのポジションにはつけられていたのだ。
中盤戦からはいよいよ苦戦の様相が色濃くなっていったのだが、終盤第15戦日本GPで、中嶋は再度6番グリッドを獲得する。当時は金曜と土曜に予選が実施されていたが、土曜日の予選終盤、ピケと完全同タイム(1分43秒693)をマークしての自己ベストタイとなる予選6位だった(先にタイムを出したピケが規定により予選5位)。母国での力走、しかもチームのエースであるワールドチャンピオンと同タイムという稀有なる状況の発生に、中嶋のタイムと順位が場内放送で告げられると、セナとアラン・プロストの激烈なマクラーレン同門タイトル争いの方に関心が向いていた観客席からも拍手が巻き起こった。
実はこの鈴鹿のレースウイーク、中嶋は母親の逝去という悲しみを胸にしまって戦っていた。表彰台の期待がかかった決勝は、スタートでのエンジンストールによる出遅れが響き、猛追するも7位。それでも中嶋は悔しさを噛み締めつつ、レース後、笑顔でTVカメラに向かってこういった旨を話している。
「誰かが押してくれたから、あそこで動けたんじゃないかと思う」。下り坂でエンジンが息を吹き返し、大きく出遅れながらもスタートできたことを天国の母に感謝した中嶋。母国入賞ならず無念、と感じていた多くのファンを感動させる言葉であった。
最終第16戦オーストラリアGPでは、ピケが序盤2戦以来となるシーズン3度目の3位に入り、優勝プロスト、2位セナとともにシーズン2度目のHonda製エンジンによる1-2-3フィニッシュ。1.5リッターターボ時代の幕引きレースで、当時最強を誇ったHondaに相応しいかたちのフィナーレを演出する一翼を、ロータス100Tは見事に担った。そして、このホンダターボの伝説は、来たる2015年シーズン、まったく新たな規定下で復活することとなるのである──。
100Tは現役を退いたのちも、幾度となく鈴鹿でのイベントやビッグレース開催時のデモラン等に使用され、中嶋本人も搭乗したりして、往年の勇姿でファンを楽しませてくれている。当時からすでに四半世紀もの時間が経過した今、日本人初のF1フルタイムドライバーだった中嶋の戦い様を語り継ぐマシンとして、そして名門ロータス“100番目のプロダクツ”として、貴重な存在感を発揮している。
Spec
シャシー
- 型番
- Lotus Honda 100T
- 車体構造
- カーボンファイバーモノコック
- ホイールベース
- 2775mm
- トレッド(前/後)
- 1800/1650mm
- サスペンション(前後とも)
-
ダブルウイッシュボーン
+インボードスプリング - タイヤ(前/後)
- 11.5-13/16.3-13インチ
- 燃料タンク
- 150リットル
- トランスミッション
- ヒューランド縦置き6MT
- 車体重量
- 540kg
エンジン
- 型式
- RA168E
- 形式
-
水冷80度V6DOHC24バルブ
+ツインターボ - 総排気量
- 1494cc
- ボア×ストローク
- 79.0mm×50.8mm
- 圧縮比
- 9.6:1
- 最高出力
- 685ps/12300rpm
- 燃料供給方式
- PGM-FI 2インジェクター
- 点火装置方式
- CDI
- 過給機
- IHI製ターボチャージャー×2基
- 潤滑方式
- ドライサンプ
Detail
前年車99Tと同じイエローのカラーリングから発展型とも見えるが、安全規定の変更もありドライバーの着座位置は後退しノーズは延伸。結果的に薄く長いフォルムとなった。しかし王者マクラーレンのMP4/4と比べるとモノコックタブは太く重厚で、空力的に洗練されたマシンとはいいがたかった。
右側にシフトノブ、左にスタビライザー調整レバーを配した、この時代のマシンでは「定番」といえるシンプルなコクピット。99Tと比べれば当然、アクティブサス関連の調整デバイスが姿を消している。レッドゾーンは1万2200回転から。
88年はターボエンジン規定の最終年。マクラーレンが16戦15勝したことで知られるHondaの1.5リッター V6ターボ「RA168E」を搭載。燃料総量規制は前年よりさらに厳しく150リットルとされたが、Hondaは最後まで最強・最高率エンジンであり続けた。
コクピット内、スタビ調整レバーの手前にシャシープレートがあり、5号車と刻まれている。100Tは5台が作られており、この個体が最終仕様となる。コンストラクターズランキングはマクラーレン、フェラーリ、ベネトンに次ぐ4位であった。