第Ⅴ章
喜びの拡大を
目指す取り組み

第5節 共生社会の実現に向けた活動

第5節 共生社会の実現に向けた活動

ホンダ太陽「何より人間」
ともに生き、ともに働く

太陽の家は「世に心身障がいはあっても仕事に障がいはあり得ない」「保護より働く機会を」という
整形外科医の中村裕博士の提唱により
1965年10月に大分県別府市に障がいのある人が働きながら暮らせる施設として誕生した。
障がいのある人の本当の幸せは残存機能を活用して生産活動に参加し
社会人として健常者とともに生きることにあるというのが中村博士の理念であった。
本田宗一郎がソニー創業者の井深大氏の紹介により、太陽の家を訪れたのは1978年1月のことだ。
作業所を視察した本田は「どうしてだ?涙のやつが出てきてしょうがないよ」と
そのあり方と、そこで働く人たちの姿に大いなる感銘を受けた。
そして、「よし、やろう。ホンダもこういう仕事をしなきゃダメなんだ」と応えた。

ホンダ太陽設立

 本田の訪問から半年、1978年7月に早速授産*1科目として精機科が発足し操業を開始。従業員数は授産従業員12名を含む16名。初めての受注は日本精機(株)の協力による、二輪車メーター類の組み立て作業だった。翌1979年にはスタンレー電気(株)から、1980年には東洋電装(株)から、二輪車の電装部品組み立てを受注している。
 そして、1981年ホンダ太陽(株)はホンダと日本精機(株)・社会福祉法人太陽の家(以下、太陽の家)の出資を受け設立された。その後、1982年に(株)ホンダロック(後のミネベア アクセスソリューションズ(株))、1985年スタンレー電気・東洋電装・(株)三ツ葉電気製作所(後の(株)ミツバ)が資本参加し5社体制が確立された。太陽の家の別館作業練には、1階にホンダ太陽・2階にソニー太陽(株)・3階にオムロン太陽電気(株)が入る近代的な工場が完成。そこでは、企業が生産管理と運営を行い、太陽の家が健康管理と日常生活の支援を担当した。

  • :障がい者授産のこと。就業能力の限られている要保護者に対し、就労や技能の習得のために必要な機会を与え、自立を支援する
ホンダ太陽を訪問する本田宗一郎

ホンダ太陽を訪問する本田宗一郎

初代工場長 山下猛

初代工場長 山下猛 初代工場長 山下猛

 1982年4月ホンダ太陽の初代工場長に山下猛が就任。山下は大学時代、器械体操の練習中につり輪から落下し頚髄を損傷、四肢まひとなったことから、1971年に授産生として入所していた。当時の太陽の家には障がい者用の最新鋭住宅テトラエースがあり、山下はそこの案内役を務めた後タジマツール別府工場で管理業務に就いていた。当時は重い障がいのある人が社会復帰して就職することが、現在よりはるかに難しい時代だったが、ホンダ太陽取締役社長(当時)となった中村博士は、頚髄損傷者でも工場運営ができることを示したいという考えのもと、あえて山下を工場長に任命したのである。
 山下を紹介する時、中村博士は必ずこう言った。「山下君は首をやられているんですよ。手も足も利かないんです。それでもこの工場をまとめているんですよ」

 比較的軽度の障がいのある人たちは、先行していたオムロン太陽電気・ソニー太陽に就業していたことから、ホンダ太陽では重度の障がいのある人の割合が多かった。しかも、それまでは木工関係の仕事が大半であったが、大きく内容の異なる二輪車の部品製造を手掛けなくてはならなかった。
 1982年5月にホンダ太陽はホンダの特例子会社*2として認定され、急激な円高の影響などによって国内経済は不安定であったものの、設立時の5社の協力とホンダからの支援は継続、二輪車部品に加え、四輪車・汎用製品部品の受注も始まり、仕事量は拡大していった。そういった状況下で、会社経営の経験など当然なかった山下は、大変な苦労を重ねて会社運営の道を探り続けた。
 「会社としての経営を考えながら、少しでも社会復帰を広げていかなければならないという時に、重度の障がいのある人を雇用して、本当にやっていけるのだろうか。また、雇用したところで60歳まで働けるのか。5年、10年でも、従業員として頑張ったのだという、その自信と誇りを持つことができれば、それだけで良いではないかという想いもある。しかし、株式会社である以上、温情主義では続かない」(山下)
 会社設立からの最初の10年は経営的な苦しさ、人の問題の難しさ、そしてホンダのグループ企業の中でも特別視され、同じ仲間として認められない悲しさを体験した。そこで身をもって学んだのは、「良品をつくるのも不良品をつくるのも、最後は人の力にかかっている。効率を上げることも、結局は人がその気になることが最も大事だ。会社の経営も、最後はそこに働く人たちが幸せになることが目的である」ということだった。
 以来、ホンダ太陽は基本理念を「何より人間」とし、山下をはじめとする従業員の地道な努力の結果、業容は徐々に拡大し、創立10周年を迎えた1991年には従業員数は62名となり、そのうち障がいのある人は34名となった。

  • :障がい者の雇用促進等に関する法律に基づいて認定された会社であり、障がいを持つ人たちの雇用拡大を目的としている
「何より人間」の基本理念を掲げ、従業員は努力を重ねてきた

「何より人間」の基本理念を掲げ、従業員は努力を重ねてきた

職域の創出と事業の拡大

 1992年7月、本田技術研究所の特例子会社として、大分県別府市にホンダR&D太陽が設立された。研究・開発を業務とする特例子会社はそれまでに例がなく、オールホンダのプロジェクトとして障がいのある人たちの職域・職種を拡大する取り組みとなった。当初ホンダR&D太陽ではComputer Aided Design(コンピュータ支援設計 以下、CAD)による設計・製図業務と二輪車用キーロックセットの組み立てを行っていたが、CAD業務が軌道に乗ったことと日出工場の新設を機に、キーロックセットの組み立てをホンダ太陽に移管し、CAD業務に専念する。
 ホンダ太陽・ホンダR&D太陽の新工場である日出工場は1995年5月に設立された。「緑に囲まれた潤いのある公園工場(インダストリアルパーク)」をコンセプトに、大分県日出町にある43,400m2の敷地には工場棟・厚生棟・住宅のゾーニングが施され、すべての場所をバリアフリー化。ドアノブや水道の蛇口・電気スイッチなどには、ユニバーサルデザインを導入し、誰もが使いやすい設備を実現していた。

1995年に完成した日出工場。緑に囲まれた潤いのある公園工場がコンセプトであった

1995年に完成した日出工場。緑に囲まれた潤いのある公園工場がコンセプトであった

 ユニバーサルデザインを導入し誰もが活躍できる環境づくりを目指した
 ユニバーサルデザインを導入し誰もが活躍できる環境づくりを目指した ユニバーサルデザインを導入し誰もが活躍できる環境づくりを目指した
ユニバーサルデザインは作業治具へも ユニバーサルデザインは作業治具へも
ユニバーサルデザインは作業治具へも

 この新工場の建設とホンダ太陽の200人体制は「重度の障がいのある人たちが就労できる場を拡大する取り組みを、もっと発展させていかなければならない。そして障がいを持つ人たちも生き生きと働き、社会に役に立ち、ともに喜びを分かち合えるようになりたい」という山下の、10年越しの夢であった。この日出工場の完成に伴いホンダR&D太陽もこの場所に移転。その従業員20名を含めて日出工場の従業員数は100名、これに別府工場の100名(授産従業員含む)を加えて、山下の夢であった200名体制が実現したのである。
 1996年9月にホンダ太陽は創立15周年を迎え、その記念式典では当時の社長を務めていた畑田和男が「従業員のこれまでの頑張りに拍手を送りたい。これからは変化に強い企業を目指し、次のステップへ向けてスタートする。障がいのある人たちが働く『世界のモデル工場』を実現したい」と述べた。
 当時常務となっていた山下は「世界中の障がいのある人たちが、私たちと同じように生き生きと働き、充実した人生を手に入れられるよう、私たちがこの地で先駆的な役割を果たしていきたい」と決意を新たにし、最後にNSP(New Sun Next Stage Plan)宣言が行われた。これは、「一人ひとりが変化に強く、弾力性のある企業体質づくりを目指す」というもので、仕事の場のみならず、日常生活や遊びの場も共通の舞台とし、基本理念である「何より人間」を具現化するという志が込められていた。

ホンダ太陽・ホンダR&D太陽として自立

太陽の家とともにISO14001の取得に取り組んだ 太陽の家とともにISO14001の取得に取り組んだ

 その後、ホンダ太陽は二輪事業を中心に業績を伸ばし、NSPによって大きな成果を上げていった。1998年には、さらなる品質向上に努めることが必要だと考え、別府工場と日出工場ではISO(国際標準化機構)9002、さらに2003年にISO9001認証を取得する。あくまでも一人前の会社として責任を果たすことで、会社や従業員の価値を社会に認めてもらえる。障がいがあることと、仕事の品質はまったく関係がないということを証明したかったのである。
 しかし、時代とともに会社を取り巻く環境も大きく変化し、輸出用製品は現地生産・現地調達が加速度的に進み、二輪車製品の受注が年々減少していった。そこで、時代の変化に対応し、社会に対して発信し続ける企業を目指すため、2004年4月より3カ年計画でNSP-IIプロジェクトを発足させた。
 安定した企業経営と従業員の安心な暮らしを確保するため、また、基本理念である「何より人間」をより具現化すべく、「社会から存在を期待される企業」をキーワードに、従業員が一致団結。プロジェクトの柱は品質向上と現場力強化であり、ホンダグループの一員として「桁違い品質の実現」を目指し、全従業員が改善・改革する力を維持・進化させ「自立した現場にする」ため、QCサークル活動*3など日々チャレンジを続けた。
 また、通常業務とは別に環境に対する取り組みも積極的に行ってきた。2000年11月にはISO14001認証取得。環境ISO取得にあたっては、太陽の家は直営工場ばかりではなく、寮やスーパーマーケット・企業などさまざまな共同体で構成されており、企業単独での取得に比べて大きな努力を要したが、太陽の家グループ全体で実現した。工場から排出される廃棄物の削減・省エネ・省資源といった目標を掲げ、施設内から出る生ゴミを分解して再資源化し、工場内緑地や近隣農家に還元し地域の森づくりに貢献。CO2排出量削減と省エネルギーを目的とした太陽光発電も稼働を開始した。

  • :同じ職場内で品質管理活動を自発的に小グループで行う活動

受動から能動へ。データビジネスへの布石

 2008年8月には、杵築成形工場の移転と製造部門の日出集約を目的とした第2日出工場が完成。ところが、ほぼ同時にリーマンショックが起きてしまい、工場を建てたもののまったく仕事がない状況に陥り、仕事の確保に奔走することとなる。ホンダの購買部門の協力のもと、各メーカーより新規の受注を確保できたが、この時に大きな学びがあった。
 部品メーカーへ営業に行くと、先方の社長から「『何か仕事をください』と言う営業はもうやめなさい」と言われ、「どの会社でも『ウチに仕事をくれたら、こんなイイことがあります』という営業トークに変えるように」と言われた。それは、ホンダ太陽はホンダの子会社であり、グループ企業の一員として「どうしたら良いか、自分たちで考えて提案せよ」と言う示唆だった。
 「何かあれば、周囲が助けてくれると思い込んでいたが、それは甘えではなかったのか」(当時の社長 西田晴泰)。リーマンショックによる危機がきっかけとなって、それまでの受動的な仕事から能動的な仕事を目指して「『この工場を仕事でいっぱいにしよう』と、おおよそ2年で部品の受注を増やすことができた」(西田)。また、この時期に研究所より試作品の粉末焼結業務を受注したことは、後の業務につながるデータ業務拡大への足がかりとなった。
 データ作業は、手先・足先が不自由な人でも訓練次第でCAD操作ができるようになる。加えて、ホンダR&D太陽にはホンダの情報ネットワークがすでにつながっており、機密対応がクリアになっていたため、新たな投資も必要がなかった。「データの仕事は将来でもなくならない」「外部に出ていた資金をグループ内で回す」の2点に絞って領域を拡充していった。

第2日出工場

第2日出工場

データビジネスの本格導入

 データ領域の業務は着実に拡大し、研究所からの受注も高度な専門性を要する内容へと進化していった。二輪車のデザイン領域では、デザインスケッチを基に製作したクレーモデルやモックアップモデルの寸法データ測定を行い、そのデータにスムージングや微調整、テスト後の形状変更データを加えて、完成車のスタイリングデータを作成する時代になっていた。
 伸長著しいASEAN*4市場向けの機種開発が増大すると、その当時熊本製作所にできた二輪R&Dセンター熊本分室(HGA-K)にホンダ太陽のメンバー1名が駐在する形で、スタイリングデータ制作のトライアルを開始。結果、ホンダ太陽で二輪車のスタイリングデータ業務を行うことが決まり、2013年4月にスタイリングデータの仕事が正式に立ち上がる。スタイリングデータ作業には、オペレーションスキルはもちろんのこと、モーターサイクルのスタイリングデザインとは何かを理解しなければ、要望通りのデータには仕上がらない。クリエイティブな要素が重要でもあるため、スタイリングデータのエキスパートにホンダ太陽へ出向してもらい、ノウハウやポイントなどを最大限吸収し、今ではホンダ太陽メンバーのみでデータ作業を推進できるようになった。

データビジネス棟と作業風景 データビジネス棟と作業風景
データビジネス棟と作業風景 ホンダ太陽では障がい者も健常者も、ともに同じラインで働いている

 2014年10月にはその受け皿として、データビジネス棟が完成。これにより、ホンダ太陽は設立の地である太陽の家を離れ、すべての業務を日出工場に集約した。

 自分たちの組み立てた部品は商品の一部であり見えにくい。しかし、デザインの仕事はホンダの二輪車を見かければすぐに自分たちの仕事だと分かるので、従業員の誇りや喜びの醸成につながった。「大分にいながら、世界で商品を販売しているホンダの中枢的な仕事ができるという喜びの声も聞かれるようになった」(当時の社長 簗田准)
 2023年現在では、さらに高度な専門性を要する業務対応が可能となっており、データ業務はホンダ太陽の売り上げの3分の1を占めるほどに成長している。
 2021年、ホンダ太陽は創立40周年を迎えた。本田宗一郎が「どうしてだ?涙のやつが出てきてしょうがないよ」と言って設立した1981年のころとは、仕事内容も社会情勢も大きく変化した。しかし、変わらない、変えてはいけないものがある。それは障がい者も健常者も関係なく、お互いを人として認め合うというホンダ太陽の基本理念である。
 「時代の趨勢で電気自動車(EV)関連のビジネスが隆盛すれば、やはりデータ領域の業務をより増やしていく必要がある。2023年現在約250名の従業員がいるが、全員がデータ業務をできるわけではないので、製造領域でも内燃機関、EVに関わらず需要のある電装系などの仕事も確保したい。その一方で、障がいのある人たちがこれから年を取っても、続けられる仕事もないといけない。あまり難易度の高くない製造の仕事はキープしつつ、データ業務を増やしていこうと考えている」と、2023年現在の取締役である園田隆は言う。
 データ領域ではCATIA(ハイエンド3次元CAD)やスタイリングデータといった設計業務の強化が挙げられるが、新たな業務拡大を目指して2023年からホンダの和光ビルに、ホンダ太陽・和光事業部を発足しスタートさせた。将来的には人の多様性を包括し、共存できる就労環境の存在は必須になっていくことから、ホンダグループ全体でこれを具現化しようという狙いによるものだ。これが順調に進めば、ホンダグループのさまざまな事業所での就労チャンスが拡大する。
 「やはり現場で一緒に仕事ができた方が良いし、和光ビルなら駅からも近く通勤も容易。おかげ様で、スタイリングデータ業務では『ホンダ太陽がいないと困る』と言ってくださっている。ゲスト扱いから、対等に一緒にやっていけるような形になってきているのかなと。こっちにやってもらっている、相手にやってあげているといった意識があるうちは、対等な関係にはなれない。これはホンダ太陽、初代工場長の山下に気づかせてもらったことで、山下は障がいのある人を甘やかさずに厳しくしていた。この40年でさまざまな事柄が変化しましたが、そこだけは変えてはいけないし、継承していかないといけない」(園田)
 ホンダ太陽が設立された当時、特例子会社は少なかった。しかし現在は600社弱*5の特例子会社が存在する。仕事に対する対応や本質的な実務能力において、ホンダ太陽には、「少しは誇れるものがあるし、そこを大事にしていきたい」と園田は言う。

  • :Association of South-East Asian Nations 東南アジア諸国連合
  • :厚生労働省によると2022年6月1日時点で579社

ボトムアップ提案で新たなチャレンジ

音声をリアルタイムで文字化するHonda CAシステム。ホンダの社内用語を取り込み、おのおのの組織ごとのカスタマイズも進めている 音声をリアルタイムで文字化するHonda CAシステム。ホンダの社内用語を取り込み、おのおのの組織ごとのカスタマイズも進めている

 そういった意味では、人間の能力やポテンシャルをどうしたら最大限に引き出せるかという将来へ向けたチャレンジも現在進行形で行われている。その1つが後にホンダ・コミュニケーション・アシスタンス・システム(以下、Honda CAシステム)と呼ばれることとなる、音声認識システムの開発だ。
 Honda CAシステムは聴覚障がいのある人のコミュニケーションツールとして、音声をリアルタイムで文字化するものだ。そもそもは、QCサークル活動における意思疎通の充実を図るためのツールとして、初期は低予算の中で市販ソフトを使うところからスタートした。
 「これをやりたいと思ったのは、ある会議で聴覚障がいの方と一緒になって、その時の筆談がすごく要約されていて、それでは話の流れや内容が完全に理解できないのではと感じたからです。それで、例えば『あなたはどう思いますか』と聞かれても、話の流れが分からないから答えようがない。自分がその立場だったらどうなのだろうと思ったのです」と、開発担当の眞浦一也は言う。
 QCサークルで活動を行ううえで、ある程度文章として成立する音声の認識率を80%と独自に目標を定め、そこまでは自力で達成したものの、聴覚障がいのある人が認識された文章を読んで正確に理解できるかという点では、まだまだ未完成であったが、予算のない状況でそれ以上の開発は難しいと考えていた。そうした状況の中、革新技術によって人類課題の解決に挑戦する研究機関であるホンダ・リサーチ・インスティチュート・ジャパン(以下、HRI-JP)の協力が得られることになった。2017年からHRI-JPとともにシステム仕様の策定やテストなど共同でソフトウェア開発を行い、ホンダ太陽内で実証実験を実施した。音声認識機能の改良だけでなく、聴覚障がい者からの発信を考慮し、手書き入力機能を加え双方向コミュニケーションツールとして2020年まで改良を重ねてホンダ太陽内ではなくてはならないツールとなった。

 「そこから新しいプロジェクトを始めました。オールホンダの中にも私たちと同じようにコミュニケーションに困っている人は少なくないのではと思い、水平展開してホンダの皆さんにも使っていただきたいと、試験運用展開で和光と朝霞東、あるいは栃木の各事業所で使っていただいています。『Honda CAシステムがないと本当に困るよ』ということを言っていただけるにようになったので、非常に手応えは感じております。ただオールホンダとして考えると、まだまだ未知なところがあります」(眞浦)
 ライバルは大手の基本ソフト(OS)メーカーやソフトメーカーの出す音声認識ソフトだ。「認識率だけでいえばHonda CAシステムは優れているが、パッケージとしての使い勝手では大手メーカーになかなか対抗できない」と、眞浦は言う。ただし、その独自性を発展させれば大いなる可能性がありそうだ。
 例えばホンダには社内用語があり、各事業所ではそれぞれで使う言葉にも違いがあるため、その言語を認識するプログラムの取り込み、さらには手話を使う人には手話アバターに変換されるような機能を開発し取り入れることができれば、聴覚障がいのある人の理解をより深めることができるはずだ。このように、組織なりのオーダーメイド感覚でソフトを開発できることが、Honda CAシステムの強みでもある。
 「われわれはコミュニケーションバリアフリーと呼んでいます。お金はかかりますが、物理的なバリアフリーは工事でなんとかなる。しかし、コミュニケーションのバリアフリーは、一人ひとりの能力や知識や感受性に影響されるものですから、容易ではありません。でも、それができてからでないと、『私たちの会社はバリアフリーできています』とは言えないと思います。私はホンダ太陽の人間なので、ホンダ太陽のプレゼンスを向上させるという意味でも有意義な活動だと思っています」(眞浦)
 システムの発展次第で、Honda CAシステムには人の能力やポテンシャルを最大限に拡張できる可能性があり、聴覚障がい者の方はもちろんのこと、高齢者の方などにも進化したこのシステムを使えば、今以上に容易にものづくりに取り組める可能性も考えられる。
 このようにホンダグループの一員として、挑戦し続ける姿勢と自主自立の精神こそがホンダ太陽不変の魂であり、自立した会社として、自立した人間が働く場として、これからも新しい時代とともに変化を続けながら、人間の可能性を切り拓いていくだろう。