イノベーション 2023.12.04

Hondaの企業カラーが「赤」の理由。日本初の赤いクルマと真っ赤な製品の誕生秘話に迫る

Hondaの企業カラーが「赤」の理由。日本初の赤いクルマと真っ赤な製品の誕生秘話に迫る

Hondaのロゴにも使われている鮮やかな赤。実はこの赤色、Honda独自に定めた「Honda Red」というコーポレートカラーなんです。Honda Redを再認識しさらに広めるべく、創立75年を迎えた2023年、公式グッズとしてHonda Red色鉛筆が加わり、2023年10月から販売されています。そもそも、Hondaはなぜ赤色を大切にするのでしょうか? 日本で初めて発売された赤いスポーツカーや、真っ赤な汎用製品の開発秘話を通じて、その理由に迫ります。

2023年10月から販売中の色鉛筆「Honda Brand Color Pencil」2023年10月から販売中の色鉛筆「Honda Brand Color Pencil」

かつてのクルマは赤や白がNGだった。規制を塗り替えたHondaの策とは

日本の街中で数多く見かける赤や白のクルマ。かつての日本では、ボディカラーに赤や白を使ったクルマの国内販売が、法律で規制されていたことをご存知でしょうか? 実は、1960年代にこの規制を塗り替えたのがHondaなのです。その経緯を、Hondaの四輪進出のエピソードから見ていきましょう。

一般向け乗用車として、日本で初めてボディに赤色を採用した「S500」一般向け乗用車として、日本で初めてボディに赤色を採用した「S500」

1950年代、日本の自動車産業はまだまだ発展の途上にあり、アメリカを初めとする諸外国に遅れをとっていました。当時、通産省(現在の経済産業省)から、「4人乗り、時速100km、価格15万円」の条件を掲げた「国民車構想」が発表され、各メーカーが競い合うように、この構想に合わせた乗用車を発売します。二輪専門メーカーだったHondaも若手技術者を集め、四輪進出のために開発を進めます。

しかし、開発を進める中、通産省が自動車行政の基本方針(後の特定産業振興臨時措置法案、通称・特振法案)を発表します。この政策は、自動車メーカーの統廃合や新規メーカーの参入規制をするというものでした。つまり、このまま法案が成立してしまえば、Hondaは四輪業界に進出できなくなるという事態に追い込まれたのです。

本田宗一郎は、「産業を育てるのは自由競争だ」と反発しますが、法案提出に向けた動きは変わりません。Hondaは法案が成立する前に、四輪車の生産実績をつくるべく、四輪スポーツカー2種と軽トラ2種の設計・開発を急ピッチで進めることになりました。

「SPORTS 360」の収蔵車両走行ビデオ(1962年)/本田技研工業株式会社のYouTubeより

日本初の赤いクルマはこうして生まれた! Hondaの赤へのこだわり

当時のデザイン担当者が、開発中のスポーツカー「SPORTS 360」を少しでも目立たせるため、プロトタイプに赤っぽいオレンジを塗ったところ、それを見た本田が気に入って、「今度のクルマは赤でいくぞ!」とゴーサインを出しました。

しかしながら当時の日本では、「消防車や救急車といった緊急車両と似ていて紛らわしい」という理由から、国内販売用のクルマのボディーに赤を使うことは法律で規制されていました。

本田は、新聞のコラム欄を通じて「赤はデザインの基本となるものだ。それを法律で禁止するとは。世界の一流国で国家が色を独占している例など聞いたことがない!」とアピール。担当者が足しげく運輸省(現在の国土交通省)に通うことで、ようやく赤色を使用する許可を得たのです。

最終的にSPORTS 360は販売には至りませんでしたが、同時に開発が進められていた一回り大きめのスポーツカーが「S500」の名で売り出されました。S500の発売前には、新聞広告欄に掲載された「価格当てクイズ」に500万通以上の応募が集まるなど、大きな話題を呼びます。こうしてHondaは二輪の生産設備を活用して量産にも踏み切っていくのです。

ところで、Hondaが四輪開発に着手するきっかけとなった自動車行政の基本方針はどうなったかというと、結果的に成立せず、廃案になりました。しかしながら、Hondaにとってこの挑戦は決して無駄にならず、四輪への進出の実績はもちろん、開発技術や「赤いクルマ」が大きな財産として残ったのです。

「S500」の収蔵車両走行ビデオ(1964年)/本田技研工業株式会社のYouTubeより

真っ赤なプロダクツが巻き起こした「Honda旋風」

Hondaは、クルマやバイク以外にも、モビリティの開発で培ったエンジン技術を活かして、耕うん機、発電機、除雪機、芝刈機など、生活や仕事に欠かせない汎用製品をつくっています。

これらのパワープロダクツのキーカラーも「赤」。今でこそ、「赤いプロダクツといえばHonda」というくらい、世界中で真っ赤なHonda製品を見ることができますが、初めから今のように業界をリードする企業だったわけではありません。

先述の四輪開発と同じく、Hondaはいずれの分野でも、後発メーカーでした。そんなHondaがなぜ、世界を席巻できたのか。そして、Hondaはなぜ汎用製品に赤色を使うのか。その理由を、Honda製品の歴史から紐解いていきます。

1952年、「カブ号F型」が発売されました。これは、自転車に後付けして使う補助エンジンで、キャッチフレーズは「白いタンクと赤いエンジン」。小型軽量設計と斬新なデザインから人気を博し、ここから「Hondaのエンジン=赤色」というイメージが広がっていきました。

「カブ号F型」。白いタンクと赤いエンジンが赤色の源流?「カブ号F型」。白いタンクと赤いエンジンが赤色の源流?

明確な資料は残っていませんが、1959年にHonda初の耕うん機「F150」が真っ赤なカラーリングで登場したのは、そうしたイメージを反映してのことだったと考えられています。使う人のことを第一に独創的な工夫を盛り込んだF150は、他のメーカーの先行製品が多数ある中で、「Honda旋風」と呼ばれるほどの爆発的なヒットを記録。それ以降、Hondaの耕うん機のキーカラーは赤になったのです。

Honda初の耕うん機「F150」。当時は工業製品を赤く塗ること自体が画期的だったHonda初の耕うん機「F150」。当時は工業製品を赤く塗ること自体が画期的だった

1960年代には、発電機の分野にも進出。開発者たちは、「Hondaにしか創れない新しい製品を創って勝負しよう」と奮闘しました。デザインにもこだわりがあった本田は、「誰が見ても安心感の持てる、機械を感じさせないフィーリングを出すんだ」「底の方もきちんとしろよ。見えない部分にも気配りを忘れるな」といった指示を当時のデザイナーに出しています。

その結果、1965年に発売された携帯発電機「E300」は、発電機らしくないコロンとしたキュービック型で、スイッチ類は全て丸いノブを使用。発電機に馴染みがない人でも、親しみやすく使いやすいデザイン設計で売り出されました。

Honda初の携帯発電機「E300」。優しさと使いやすさを両立したデザインHonda初の携帯発電機「E300」。優しさと使いやすさを両立したデザイン

E300に塗られていたのも、やっぱり「赤」。赤色は、先進的かつ力強くて信頼できるE300のイメージを表すことができ、若者がレジャーに持っていくのにもぴったりな色だったのです。発電機のイメージを覆したE300は、国内にとどまらず、世界中でベストセラーになりました。E300以降、Hondaの発電機は赤いキーカラーを引き継ぎながら、さらに進化を遂げ、今も世界中で活躍しています。

Hondaの汎用製品が世界を席巻したのは、技術力だけが理由ではありません。この「赤色」が、情熱を持ってつくられてきた製品の先進性と信頼性を直感的に伝えてくれたことも、Honda製品の普及に大きく関係しているのです。

Honda Redを背負う意味。赤色が表す「信頼性」を形に

そして2001年、Hondaはコーポレートカラーとして「Honda Red」を定めました。Hondaの製品やモータースポーツ活動などから連想される「エキサイティング」なイメージに加え、Hondaブランドの「品質感と技術力」を表す深みを持った赤が採用されています。赤色が表す、高い品質・技術力による確かな「信頼性」と、本田宗一郎から受け継がれてきたフィロソフィーを、Hondaはこれからも製品を通じて体現していきます。