“感覚”をデータに変える
―Hondaが技術で挑む、車いす陸上競技の新たなトレーニング
ハンドリムに、どの角度で力をかけたのか。
左右のバランスは、どうだったのか。
レースの中で、自分は本当に「うまく漕げていた」のか。
車いす陸上競技では、長年にわたり選手自身の感覚や、コーチの経験によるトレーニングが行われてきました。
そこに今、Hondaが開発した「漕ぎ力計測ホイールシステム※」が、新しい視点を生み出しています。
この技術は現在、レンタルという形で競技現場に届き始めたばかり。
その背景と、現場で実際に起きている変化を、2025年11月、第44回大分国際車いすマラソンの翌日、
ジェイリーススタジアム(大分市)で行われた漕ぎ力計測会の密着取材からお伝えします。
※ 漕ぎ力計測システムは、車いすレーサーの漕ぐ力を数値化・可視化し、左右差や加速・減速などの走行データを客観的に分析できるツールです。これにより、従来は感覚的だったフォームの特徴をデータで把握できます。
1. 漕ぎ力計測ホイールシステムのレンタル開始―見えなかった“力”を可視化する技術
「車いす陸上競技の発展」を支えるために
車いすレーサーの開発と並行してプロジェクトを率いている、本田技術研究所のエンジニア・池内康。
掲げてきたテーマの一つが、「車いす陸上競技の発展」です。

その中心にあるのが、漕ぎ力の可視化です。
車いすレーサーを漕ぐときの力の入れ方や方向をデータとして捉えることで、選手一人ひとりの個性やクセが見えてくる。そこに、トレーニングを進化させるヒントがあると思っています。
必要なときに、必要な場所で。
合宿や大会前後など、選手それぞれに“測りたいタイミング”があります。研究施設に来てもらうのではなく、トレーニング場所そのものを計測の場にしたかったんです。
漕ぎ力計測ホイールシステムは、センサーを内蔵した計測用ホイールを車いすレーサーに装着し、走行中にハンドリム(車いすレーサーホイールの外側についている、手で漕ぐためのリング)へ加えられた力を直接計測する仕組みです。自身のハンドリムを取り付けた本ホイールをご自身のレーサーにセッティングすれば計測が可能になり、データ分析まで進めることができます。

複数のカメラやラボなど大掛かりな設備を必要とせず、ホイール単体で精緻な動きを捉えられる点は、Hondaならではの技術。
普段のトレーニング場所で手軽に計測できることを大事にしてきました。
2. 計測会の現場から―感覚がデータで“見えてくる“
実走で測り、その場で振り返る
計測会では、漕ぎ力計測ホイールを選手が普段使用しているレーサーに装着し、ハンドリムも日常的に使っているものに交換した状態でトラックを走行します。

計測のために、特別なハンドリムへ交換する必要はありません。「いつものセッティング」「いつもの感覚」のまま走ることができる。それが、このシステムが実走に近いデータを得られる大きな理由の一つです。
走行後すぐにホイールからデータをダウンロードし、パソコン上で波形や数値を確認。選手、コーチ、関係者が画面を囲みながら、自然と会話が始まっていきます。

アスリートが感じた「確認できる」価値
現役アスリートでありながら日本パラ陸上競技連盟 強化委員会のメンバーに名を連ねる樋口政幸さんは、こう語ります。
目で見たフォームと、実際にハンドリムにどう力が加わっているかって、意外とズレがあるんですよね。でも、数値で見ると、“あ、ここでロスしているな”というのが、誰にでも分かる。しかも、いつものハンドリムで測れるから、感覚とデータがつながりやすいと思います。

技術的なトレーニングに取り組むとき、自分が一つの基準にしているのは、地面反力や、車輪からの反発を、どれだけスピードに変えられているかという点です。陸上のランナーが足で地面反力を受けるのと同じような話ですが、車いす陸上の場合は、回転している細いハンドリムから、非常にピンポイントにそれを受けなければならない。それは、0.1秒にも満たない、ほんの一瞬の動きです。
この瞬間に、ここできちんと地面反力を使えていたんだなということが、データとしても確認できました。自分の感覚と、実際のデータが一致していることが分かったのは、大きかったですね。
同じく計測に参加した古畑篤郎さん(電通デジタル所属)は、データを見た第一印象をこう振り返ります。

自分は右利きなので、左が少し使いづらいという感覚がある分、意識的に左を強く使って、まっすぐ進めるようにしていたんです。それが今回データとしてもしっかり出ていたので、『あ、自分の意識どおりなんだな』と確認できました。
一方で、自分では一番下に到達するくらいまでハンドリムを握って力を加えていましたが、握っている時間の後半はあまりトルクがかかっていなかったことが意外でした。もっと早く手を離しても今と同じくらいのパワーが出せ、効率良く漕げるという気づきがありました。

これまでに、かなり重かったり、タイヤが付いていないディスク面だけの計測機器を使ったりしたことがありますが、実際の走りとは少し違う感覚でした。その点で、このシステムは普段使っているレーサーに装着できて、実走にかなり近い条件で測れる。そこがすごくいいと思いました。
「自分にとっての基準を見つける」
プロ車いすアスリートとして長年競技に関わってきた廣道純さんは、この技術に対する印象の変化を率直に語ります。

やっぱり、人と比べても、みんなそれぞれ違うんですよね。速い選手同士でも、フォームも手の使い方もバラバラ。だから『これが正しい』という話じゃなくて、自分に合ったやり方で、どう速度が上がるか、どう持久力が続くか、そこを見つけていくためのデータだと思います。ポジションも、スタイルも、ピッチの速さも人それぞれ。障がいの度合いによっても全然違う。だから、それをどう自分のものにしていくか、というところが大事なんですよね。
フォームがきれいでタイムが良さそうな選手よりも、左右バラバラなのにもっと速い選手もいる。そういう中で、自分にとっての基準、標準を見つける。それができるのが、この計測システムだと思いました。

これまで動作解析も何度かやってきましたけど、正直、『データは取ったけど、だからどうするのか』というところまで落とし込めていなかったのが、日本の車いす陸上競技の現状だと思うんです。本当は、世界のトップ選手のデータをしっかり取って、日本の選手と何が違うのか、走りにどんな差があるのか。そこまで分析できたらその先に、日本人がマルセル(フグ選手、スイス)の記録を塗り替えられる、そんな未来につながっていったら、最高ですよね。
「データが生む“気づき”」
今回の計測に、国立障害者リハビリテーションセンター研究所の研究員で、競技用車いすの動作分析を専門とする彦坂幹斗さんも参加していました。

ホイールだけで完結してデータが測定でき、走行直後、まだ感覚が残っているうちにデータを確認できることは大きな価値です。これで出てきた波形や数値を、そのまま眺めて終わりにするのではなく、車いす陸上という競技に還元していかないといけない。つまり、パフォーマンスやトレーニングに活かせる形に落とし込む必要があります。
このデータは、“こうすれば正解だ”ということを教えてくれるものではありません。左右差も、数字そのものを見るより、なぜその差が出ているのかを考えることが大事なんです。選手やコーチの方々と、技術者や解析できる研究者の間でどう橋渡ししていくのか。ここは難しいところでもありますし、でも一番大事なところだと思っています。自分自身も、そこはこれからもっと勉強して、現場と一緒に進めていけたらいいなと思っています。

同じ競技レベルの他の選手のデータだったり、あるいは異なる競技クラスの選手のデータだったり、参照できる母集団がないと、言えることには限界が出てきてしまうんです。
だからこそ、これからは
・どういう条件で計測するのか
・どんなレベルの選手を対象にデータを集めていくのか
そういった設計も含めて考えながら進めていくと、車いす陸上の競技力向上につながっていくはずです。
※ 計測データは個人情報にあたるため、Hondaはレンタル先でのデータは取得していません。
実践の中でこそ、技術は意味を持つ
漕ぎ力計測ホイールシステムの開発にあたって、本田技術研究所と共同研究を行い、さまざまなアドバイスをしてきた日本の車いす陸上の先駆者であり現役アスリートでもある山本行文さんは、こう振り返ります。
実際の走りの中で、実践的な部分が測れること。それが一番だと思って、ずっと開発に携わってきました。皆さんと集まって計測し、データを見ながら議論することを理想としてきたので、感慨深いですね。ここに至るまでには、本当に数えきれないくらいの試行錯誤がありました。

せっかく生まれた技術を、研究で終わらせない。競技の時間軸の中で、どう使われ、どう理解されるのか。山本さんが一貫して大切にしてきたのは、その視点でした。
コーチが『これは効率がいい』『こういう意味がある』と理解できて、同時に、選手自身もそれを理解できる。双方が分かって、初めて改善や向上につながっていくと思っています。今日参加された方々が感じたこと、気づいたことを他の選手やコーチにも伝えてもらえれば良いと思います。

この取り組みが広がり、日本の車いす陸上競技の記録が更新されていく。競技全体の向上につながっていく。その未来を見据えています。
これが完成形だとは思っていません。今回が“第一歩”です。これから、現場の声を聞きながら、どう使われていくのかを一緒に見ていけたら良いと思っています。
3. 車いす陸上の未来へ―技術は「答え」を出すためではなく、「気づき」を生むためにある
選手の身体条件や障がいの度合い、スタイル、ピッチは一人ひとり異なります。だからこそ、誰かの“正しさ”をなぞるのではなく、自分にとって何が合っているのかを見つけていく必要があります。この技術の出発点について、池内は語りました。
データとして捉えることで、選手一人ひとりの個性やクセが見えてくる。そこに、トレーニングを進化させるヒントがある——。漕ぎ力計測ホイールシステムは、『こうすれば正しい』と答えを示すための技術ではありません。感覚を否定するものでも、コーチングを置き換えるものでもない。この技術が生むのは、“気づき”です。
なぜ、このタイミングでロスが生まれているのか。なぜ、左右差が出ているのか。
その差は、修正すべきものなのか、それとも個性なのか。
感覚とデータを行き来しながら、選手とコーチが対話を重ねていく。そのプロセスそのものが、トレーニングを良い方向へ導いていきます。目で見た印象と、実際に起きている動きの間には、少なからず“主観と客観のズレ”が存在します。そのズレを埋める手がかりとして、データは大きな力を持ちます。

競技力がより向上するための“ベース”は、今回作れたと思っています。これからは、選手に知ってもらうことに加えて、『計測できる人』『データを解釈できる人』を増やしていくことも大事だと感じています。感覚と、実際に起きている物理現象を、できるだけ結びつけていく。いかにその二つをマッチさせるか。この計測は、そこを助けてくれるものです。どうしても言葉は感覚的になりがちですが、定量的に説明できることで、教える側も、教わる側も、納得して前に進める。その点でも、大きな意味があると感じています。
技術は、人のために。
漕ぎ力計測ホイールシステムは今、あらゆる人たちに開かれた形で、車いす陸上競技の現場に新しい対話を生み出し始めています。
それは、押し付けの技術ではなく、一人ひとりが自分の走りと向き合うための技術です。Hondaはこれからも、その「気づき」が現場で生まれることを支え続けていきます。



車いすレーサーの車両開発だけでなく、科学的なトレーニング環境を整えることも、競技の発展には欠かせないと考えてきました。