僕はアイルトンを “チーフ”と呼んでいた
ルーベンス・バリチェロ

アイルトン・セナと知り合ったのは、フォーミュラ・オペル・ヨーロッパ選手権に参戦するために渡欧した1990年のことだった。もちろんその前から、当時誰もがそうだったように、僕も彼の大ファンだった。
僕は人生の前半を、カート活動のためにインテルラゴスで過ごした。アイルトンもここは馴染みのコースで、頻繁にテストに来ていた。僕の家はそのカートコースから歩いてすぐのところにあった。
僕や、カート時代の一番のライバルだったクリスチャン・フィッティパルディをはじめ、子どもたち全員にとってアイルトンは基準であり、アイドルであり、目標となるドライバーだった。F3では、その数年前にアイルトンが所属していたウエストサリー・レーシングで走ったんだけど、彼の話はチームのなかでもF3のパドックでも、伝説のように語られていた。

1993年に僕がF1に昇格すると、当時のアイルトンはものすごく忙しかったにもかかわらず、折を見ては僕に話しかけてくれたり面倒を見てくれたりした。そのシーズンの終わり頃、クリスチャンも一緒になって何度かディナーに出かけたけれど、その時のアイルトンは、子どもたちの面倒を見る大人という感じだった。彼に対する憧れが強すぎて、仲間として見るようなことなんて、とてもできなかったよ。
この年の日本グランプリの時、面白い出来事があった。全くの偶然で、僕が宿泊していた東京のホテルでアイルトンに偶然会ったんだ。そして、ふたりで東京ディズニーランドに行こうということになった。想像できる? ふたりのF1ドライバー、そのうちひとりは世界一のドライバーが、ディズニーランドで遊ぶなんてね!
僕は彼のことを“チーフ”と呼んでいた。からかうような気持ちもあったけれど、心の底で、僕たちにとって真のリーダーだと感じていたからそう呼んでいたんだ。

残念ながらその数カ月後に彼は亡くなってしまった。そのことは僕個人にとっても僕のキャリアにとっても、大きな影響を及ぼした。1994年第2戦のパシフィックGPで僕は3位になり、F1キャリア初の表彰台を獲得した。そのレースでアイルトンはターン1でリタイアし、ミハエル・シューマッハーの2連勝に対しまだノーポイント。当然、彼は不機嫌だった。でも、レース後に時間を割いて僕にお祝いの言葉をかけに来てくれた。その時の彼は、心から喜んでくれているように見えて、すごくうれしかった。
その数週間後、イモラであの悲劇的な週末を迎えた。金曜日に僕はひどいクラッシュをした。最後から2つ目のシケインでマシンが舞い上がってバリアにぶつかり、僕は気を失ってしまった。意識が戻った時、サーキットのメディカルセンターにいた。そして目を覚ました時も、アイルトンはそばにいてくれた。僕を見守る彼の目は、潤んで涙がこぼれ落ちそうになっていた。でもとても冷静に「大丈夫だよ。すぐにまた走れるようになるから」と言ってくれた。僕は骨を何本か折っていたため、グランプリを欠場して家に帰った。だから、アイルトンの事故を生で目撃することはなかった。それは僕にとって不幸中の幸いだった。

イモラの後の経験はすべて、かすみがかかったようにぼんやりとしている。葬儀のこともほとんど覚えていなくて、リースを運んだ記憶もない。まるで、体はそこにあったのに、魂は他の場所にいたような感じだった。アイルトンがいなくなって、僕たちは皆、途方に暮れた。ベテランドライバーも同じ気持ちだったと思うけど、まだ22歳だった僕が突然、自分のアイドルであり目標でもあった人物を失ったんだ。どれほどの衝撃だったかは想像がつくだろう。
ご存じのとおり、ブラジルのファンやメディアは、アイルトンの後を継ぐ存在になるようにと、僕に大きな期待をかけてきた。でも自分は、アイルトン・セナでないことは分かっていた。多くのファンが、僕に新しいセナになってほしいと思っていることは知っていたけれど、僕にできることは何もなかった。だから、自分のエネルギーをポジティブな方向に向けることにした。今では、自分のキャリアを心から誇りに思うことができる。
振り返ってみると、アイルトンとの思い出は楽しいものばかりだ。一緒に過ごした時間も、コース上の彼を見て学んだこともすべてがね。彼は本当に特別な存在だった。亡くなって30年経った今も、世界中のファンが彼を悼んでいる。それがすべてを物語っていると思う。

ルーベンス・バリチェロ
1972年ブラジル・サンパウロ出身。父と祖父も名前がルーベンスであることから、「ルビーニョ(小さなルーベンス)」と呼ばれ、レースキャリアを通じてもニックネームとなった。6歳の頃に母方の祖父からカートをプレゼントされ、9歳になる81年から本格的にカートレースを始める。ブラジル選手権王座5回を始め国内カートレース選手権で圧倒的な戦績を収め、89年にフォーミュラ・フォード・ブラジル選手権で四輪デビュー。90年に渡欧し、フォーミュラ・オペル・ロータス・ユーロシリーズ参戦初年度でチャンピオンに。91年にイギリスF3選手権王者、92年国際F3000選手権でランキング3位となり、93年ジョーダン・グランプリからF1デビューを果たす。F1参戦初年度第3戦ヨーロッパGP(ドニントン)では、雨のなか一時2番手を走行し注目を浴び、94年第11戦ベルギーGPでキャリア初のポールポジションを獲得。97〜99年スチュワート・グランプリを経て、2000年からフェラーリに移籍。ミハエル・シューマッハーのチームメイト役をこなしながら、第11戦ドイツGPで初優勝。02年と04年にはシューマッハーに続きドライバーズ・ランキング2位に輝く。06年にはホンダに移籍、ブラウンGP、ウイリアムズを経て11年いっぱいでF1を引退する。F1引退後もインディカー、ル・マン24時間レース、IMSAスポーツカー選手権、ブラジル国内のストックカーレースなどで活躍。24年もストックカー・プロシリーズ第7戦ベロオリゾンテのスプリントレースで3位入賞を飾っている。