セナとHondaの6年間Vol.6

大きなインスピレーションを与えてくれたライバル

ゲルハルト・ベルガー/元F1ドライバー

倒せる相手だと思ったが、大間違いだった

私が最初にアイルトン・セナを見かけたのは、1983年のイギリス/ヨーロッパF3選手権のシルバーストン戦だった。私は、ウエストサリー・レーシングのディック・ベネットから前年モデルのマシンを購入していたが、あのサーキットでギヤレシオをどうセットアップしていいのか分からなかったから、彼のチームを訪ねて助言を求めに行った。そうしたら当時、彼のチームで走っていたアイルトンが、ツールボックスに座ってやはりギヤレシオについて勉強していた。次に実際にアイルトンと初めて話をしたのは、マカオGP後のパーティーの席だった。でも、お世辞にも友好なムードではなかったね。あのレースのファステストラップは実際には彼が記録したのだが、計測に問題があって公式には私のものとなっていた。そのことが納得できないアイルトンは、その席で私に詰め寄ってきたんだ。もちろん、計測間違いは知っていたけど、知らないふりをしたよ。彼は優勝とポールポジションに加えてファステストラップの記録も欲しかったんだろう。彼が妥協のない野心を持っていたことは、この時知ったというわけさ。私たちは基本的に同世代で、当時お互いにF1のニュースターだった。アイルトンがロータスにいて私がフェラーリにいた頃(1987年)は、ほぼ同じレベルで戦っていた。彼が勝てば、次は私が勝つといった具合だ。マクラーレンに移籍するまで、私は誤った認識を抱いていた。これまでのチームメイトには常に勝っていたから「アイルトンが次に倒す相手だ」と当然考えていた。私は、彼の本当の強さを見くびっていたんだ。

最初のレースで、アイルトンの闘志に火をつけた

マクラーレンの初レースとなった開幕戦アメリカGPでは、私はいろんなアドバイスを聞いた。そのなかのひとつに、「雨のなかではセナは無敵」というものがあった。でも初日のフリー走行は雨が降ったが、アイルトンの前で私がトップに立った。予選日はドライコンディションとなり、私はそのままポールポジションを獲得した。私にとっては筋書きどおりの展開だったが、彼は面を食らったと思うよ。おそらくその夜は眠れなかったはずだ。レースでも私が先行したが、その後に問題が起きた。マシンがアラン・プロストのサイズに合わせて作られていたため、コクピットにまともに座ることができず、足がペダルの間に挟まってタイヤウォールにクラッシュしてしまったんだ。そうしてアイルトンが優勝した。それでもこの時は、最終的に彼は私のセカンドドライバーになるだろう、と考えていた。でもそうでないことがすぐに分かった。アイルトンは全体を見て、私の弱点を突き止め反撃を開始した。私はプロストと同じ道を歩むべきかどうかを考えた。つまり、マシンを批判したりチームの調和を乱したりして、政治的手段を含めてあらゆる手を使って自分を守るべきだろうか、とね。でも結局、彼に勝つためには単純に自分がより良いドライバーになるしかないと心に決めた。高速コーナーでは私の方が少し速く、低速コーナーでは彼が圧倒した。私には、低速コーナーを完璧に走るための忍耐力と規律が欠けていた。私はどちらかというとシャシーのセットアップに対して敏感で、彼はエンジンチューニングに敏感だった。しかし、全体としてアイルトンは私よりはるかに優秀だった。体力面に優れ、レースの全体像を把握することができ、基本的なスピードは驚異的。幼い頃からカートに慣れ親しんでいたので、私よりずっと経験豊富だった。

そして卓越したドライバーなら誰もがそうであるように、アイルトンは巨大な野心と、病的なほどのエゴイズムを持っていた。それはコース外でも同じだった。レース後、彼と一緒に飛行機で帰宅した時のことだ。私の目的地は、彼の目的地に行くまでの途中にあった。当然のことながら私のところにまず寄って、その後、彼の家に向かうというのが自然ななりゆきだろう。だがそうなると、彼の到着が30分遅れる。だから彼はまず先に自分の目的地まで飛んで、その後、飛行機を私の目的地に向かわせた。彼の飛行機はルートを戻って2時間余計に飛びまわらなければならなかったが、それでもアイルトンは自分が先に帰る方を選んだんだ。

アイルトンのような存在には、決してなれない

そして、イモラのあの日が来た。普通の週末のように始まったのに、次から次へと事故が起こった。今でもどうしてあんなことが起こったのか、不思議に思う。それまでの10年間は何もなかったのに、あの週末に一度にすべてが起きたのだ。

数日後、アイルトンの葬儀のためにサンパウロに皆が集まった。あのような光景を見たのは初めてだった。まるで王を埋葬するために、国全体が立ち上がったかのように見えた。彼が母国ブラジルにどれほど影響を与えてきたのかを実感した瞬間だった。

私にとってアイルトンは大きなインスピレーションだった。ただ、F1で走ったその後の4年間において、自分が彼のような存在になることは決してできないのだと認めざるを得なかった。あらためて、彼はすごく特別な存在だったのだ。

ゲルハルト・ベルガー/元F1ドライバー

1959年オーストリア・チロル出身。家業の運送会社を手伝うなかでヒルクライムやラリー見物をしているなかでモータースポーツに興味を持ち、1981年にサーキットライセンスを所得。その翌日に友人のフォード・エスコートでレースに出場し、いきなり優勝してしまう。その後FF1600、FF2000のレースに出場し、1982年にはドイツF3選手権にフル参戦しシリーズ3位に。一時家業を継ぐためレースを断念しかけたが、ヘルムート・マルコの誘いにより1983年ヨーロッパF3選手権とマカオGPに参戦。型遅れのラルトでシリーズ7位、マカオGPでは2ヒートとも3位に入賞し評価を高めた。BMWのサポートを受けて1984年はヨーロッパF3を継続しながら(シリーズ3位)F1ではATSからスポット参戦。2戦目で早くも6位に入賞し注目を集め、翌1985年アロウズからF1フル参戦。ベネトン移籍の1986年にF1初優勝を遂げ、1987年からフェラーリドライバーに抜擢された。以降、マクラーレン、フェラーリ、ベネトンと渡り歩き、1997年までに通算10勝を挙げた。引退後はBMWモータースポーツディレクター、スクーデリア・トロロッソの共同オーナー、FIAシングルシーター委員長、DTMの運営会社代表などを歴任した。