セナとHondaの6年間Vol.5

セナに憧れてF1の世界を目指した

佐藤琢磨/元F1ドライバー インディカードライバー HRCエグゼクティブ・アドバイザー

2002年に史上7人目の日本人フルタイムF1ドライバーとなった佐藤琢磨は、1987年鈴鹿サーキットで開催されたF1日本GPを観戦してモータースポーツに目覚め、F1ドライバーを目指すことになった。当時10歳だった佐藤にとって最も印象に残ったドライバーが、ロータス99T/ホンダに乗ってこのレースに臨んだアイルトン・セナだった。

「小学校4年生のときにF1日本GPを観戦できることになりました。それまでF1については、日本人選手として中嶋悟さんがいて、Hondaがタイトルを獲りそうだ、Honda陣営にはセナというすごい選手がいるんだ、ということくらいしか知りませんでした。でもセナの走りを見て衝撃を受け、モータースポーツに対する夢を抱くようになりました。レースではフェラーリの(ゲルハルト)ベルガーが勝ちましたが、セナは7番グリッドからスタートして、前のクルマに追いついて行って、追いついたと思ったら前に出て、結局2位まで上がりました。その走りが他のドライバーとは違って見え、セナの走りに釘付けになりました」

すっかりセナとモータースポーツのファンとなった佐藤はその後、セナがワールドチャンピオンになりF1に君臨する姿を眺め続けた。一方、高校に進学した佐藤は自転車競技を志して活動を始めた。1994年、セナがサンマリノGPでこの世を去った時、佐藤はちょうど自転車競技で大事な局面を迎えていた。

「高校3年生で、自分にとってとても大事なときでした。インターハイ(全国高校総合体育大会)に出場するため勝たなければならない東京都大会が5月の連休に開かれたんです。その最中に事故が起きてセナは亡くなってしまいました。自分はセナに会ったこともありませんでしたが、自分の中ではとても大切な存在になっていましたから、事故があった日の夜は悲しくてご飯も食べられなくなりました。それで勝手に、喪章をつけて東京都大会に挑みました。これで勝てばインターハイへのチケットがもらえるという大会で、勝てたらセナのおかげだし、もし負けたらセナのせいだ、と思って走り、結局勝ってインターハイへ進みました」

高校卒業後に進学した大学でも自転車競技を続けた佐藤は、セナを初めて鈴鹿で見てから10年が経った1997年、鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラ(SRS-F。現Honda・レーシング・スクール・鈴鹿=HRS-Suzuka)に入学、本格的にモータースポーツの世界へ身を投じた。

「セナは、自分がレーシングドライバーを目指すきっかけを作り、夢を与えてくれたヒーローでした。お風呂に入る時、湯掻き棒をひっくり返して足で挟んでステアリングに見立て、時計を見ながらセナのオンボード映像をなぞってセナ足をやりながらイメージの中で鈴鹿をピタリと同じタイムでラップする遊びを、かなり真剣にやっていました。スクールに入校した時も、とうとう自分がフォーミュラカーに乗ってセナが走っていたコースを走るんだなと感慨深かった記憶があります」

 

人間の想像を超えるような走りをしていた

すでにセナはこの世を去っていたが、セナに憧れセナを追いかけてレーシングドライバーになろうと一歩踏み出した佐藤にとって、セナの魅力はどこにあったのだろうか。

「絶対的なスピードと、スピードを追求するためなら、それ以外のすべてを犠牲にしても1周の速度に集中するセナの取り組みを見習おうと意識していました。Hondaがテレメトリーを入れてデジタル化し始めていたとはいえ、まだアナログの世界にあって今ほどシミュレーションも発達していなかった時代のF1に乗って、人間の想像を超えるような走りをしていたセナに魅力を感じていました」

レーシングスクールを首席で卒業した佐藤はスカラシップを獲得し全日本F3選手権に進出するがシーズン途中でイギリスに渡り、F1への道を急ぐ。

「自分がイギリスF3選手権を目指したのは、セナの影響が大きいんです。当時のイギリスF3はF1に一番近いカテゴリーだったこともありますが、セナはブラジルから渡英してフォーミュラ・フォードを闘い、イギリスF3で勝ちマカオGPで勝ってF1に行きました。そのフットパスが自分のモデルになりました。同じようにやりたいと目標にして参考にしたんです」

佐藤はまさにセナと同じ道を突進して2002年、F1にたどり着いた。

「セナと同じようにHondaのファミリーになって、F1、インディカーと一緒にできるのは、日本人としてもドライバーとしても誇りでした。自分がF1に上がった時は真っ先にイモラのタンブレロ・コーナーに行きましたし、ブラジルに行った時はお墓にも行きました。セナを目標にレースをやってイギリスF3の勝利数でセナの記録を塗り替えてF1に来られた。『ありがとう、ようやくここに来られたよ』と伝えたかったんです」

「求心力」の大切さを若い人たちに伝え続けたい

佐藤は2002年以降2008年シーズン初頭までF1を闘い、その後北米のインディカーシリーズへ転進した。足かけ7シーズンに及んだF1ドライバー時代、日本選手最高位タイの3位入賞を記録するなどの戦績を残したが、その間もセナは佐藤のヒーローであり続けたと言う。

「F1でワールドチャンピオンになるのは本当にすごいことです。自分は、例えば雨のレースで速さを発揮するなどの面で勝手に自分をセナと重ね合わせて希望を持っていましたが、結局はセナにはなれなかったし、ワールドチャンピオンにもなれませんでした。でもずっとF1で挑戦を続けられたのは、セナがそういう姿勢を貫いているのを見習ったからだと思うんです」

今、佐藤琢磨はインディ500を含む北米でのレース活動を継続しつつ2019年には自分が卒業したHRS-Suzukaのプリンシパルに就任し、後進の育成に従事している。今でもセナは佐藤の心の中に、憧れの存在として生きているようだ。

「走りに関しては、スーパーフォーミュラの現役トップドライバーたちが講師になってくれますから、自分はレースにおいてドライバーとしてどうやって取り組むかを教えています。セナは不思議な魅力を持っていて、みんなセナのためになんとかしたいと思っていたわけです。究極の求心力を持っていたのは、当時はセナであり、ミハエル・シューマッハーだったと思います。今スクールでプロを目指す子供たちには、セナのように自分が求心力を発揮して、チームの中心的存在になって、みんなの力を集めることで自分が最大限のパフォーマンスを発揮できる環境を作ることが大切なんだということに気づいてほしいですね」

佐藤琢磨
元F1ドライバー
インディカードライバー
HRCエグゼクティブ・アドバイザー

1977年東京都出身。10歳の時に鈴鹿サーキットで開催された日本GPを観戦しモータースポーツに憧れを持つも、19歳までは自転車競技に集中。1994年インターハイ優勝、1996年全日本学生選手権優勝などの戦績を残す。1997年にSRS-Fを主席で卒業し、1998年は無限×童夢プロジェクトから全日本F3選手権に参戦するが、2戦出場後渡英。1999年にイギリスF3選手権に7戦出場し2000年からフル参戦を果たし、翌2001年に同選手権チャンピオンに輝くとともに、マールボロマスターズとマカオGPも制し国際F3の頂点に輝く。同年にBAR・Hondaのテストドライバーとなり、2002年ジョーダン・ホンダからF1デビュー、2004年アメリカGPではBAR・Hondaで3位表彰台を獲得する。2008年シーズン序盤までF1ドライバーとして戦い、2010年からインディカーに転向。2017年、2020年と2度インディ500のチャンピオンに輝く。現在はインディカードライバー活動を続けながら、HRSプリンシパルとともに、HRCエグゼクティブ・アドバイザーとして活躍中。