僕が追いつけなかった男は、
F1のトップに立つ男だった
中嶋悟/元F1ドライバー NAKAJIMA RACING総監督

1984年から1986年まで全日本F2選手権で3年連続シリーズチャンピオンとなった中嶋悟は、1987年、日本選手初のフルタイムドライバーとしてF1グランプリにデビューした。所属したチームはロータス、チームメイトはアイルトン・セナだった。F1で4シーズン目を迎えたセナは、1985年から在籍したロータスで4勝を記録し、次世代のワールドチャンピオンと目される気鋭の若手ドライバーだった。
「彼の実績は知っていましたから、一緒に走ったらどうなのかなとは思ってシーズンを迎えました。ただ、彼に挑戦しようという気持ちはありませんでした。あくまでも僕は、F1で自分がどれだけやれるのか、自分に挑戦するつもりでF1に行ったんです」
中嶋は若いときから本場ヨーロッパでのレースを夢見てきた。
「日本で1等賞になっても、世界では1等賞ではないと思っていました。人数を考えれば当たり前なんです。僕は日本で何回もチャンピオンになりましたが、世界には日本以上の人数がいます。各国から上位の人間が数人ずつ世界の1等賞を目指して集まるのがF1です。オリンピックと同じです。僕はそこでレースをしたかったんです」

しかし当時の日本国内レースには海外のレースへステップアップするための経路が確立しておらず、中嶋はなかなかヨーロッパへ挑戦する体制を整えられなかった。途中、イギリスF3選手権にはスポット参戦したものの、本格的なヨーロッパでのレースは、Hondaがバックアップして実現した1986年の国際F3000選手権が初めてだった。
Hondaは中嶋の能力を高く評価しており、テストドライバーにも抜擢して、日本国内で行うHondaF1エンジンのテスト走行をまかせていた。中嶋はF1マシンのドライビング経験を十分積み、34歳になった1987年、セナのパートナーとして念願のF1デビューを果たしたのだった。
「F1初年度、目の前にいたのが結果的にはセナというスーパーマンでした。セナは本当に速かった。レースは結果がすべてですから、ラップタイムを比べたら彼にはかないませんでした。でも彼より速く走ったこともありましたし、気持ちでは僕の方が強かった面もあると思います。もちろんレーシングドライバーとして彼の結果に自分が届かなかったことは嬉しい話ではありません。でも比較しても意味がありません。僕は僕なりにF1に挑戦を続けて一歩一歩進むだけで、そのとき偶然彼が隣にいたというだけです。翌年セナはマクラーレンに移籍してワールドチャンピオンになりましたが、それが僕にとっての答えで、僕が追いつけなかった男は、F1のトップに立つ男だったんだなと、後になって少し安心しました」

セナから教えを請うこともあった
中嶋は、セナについて「とても面倒見が良い人だった」と言う。F1にデビューしたばかりの中嶋にセナは様々なことを教えてくれたからだ。
「どのサーキットに転戦しても、僕にとっては初めてでしたから、チームのミーティングでも個人的な会話でも、『いろいろあそこは危ないぞ』というポイントをアドバイスしてくれました。そればかりではなく、ブラジルへ行けば、『この水は飲んで良い、この水は飲んではいけない』と日常生活の中で水の飲み方を教えてくれたり、町の道路の走り方なども教えてくれたりしました。モナコでは僕のために(指を痛めないよう)テーピングをしてくれたりもしました」
一方でセナは、F1にデビューした中嶋をただの新人扱いすることなく客観的にその実力を認め、逆に教えを請うこともあったと言う。セナは、中嶋がHondaからの信頼を得て1984年からHondaF1エンジンのテストを担当、国内で走り込んで経験を積んでいることを知っていたからだ。
「彼は前の年まで使っていたルノー・エンジンに比べて、『Honda・エンジンにはむずがゆく感じる振動があるが、これは普通の状態なのか?』というようなことをよく聞いてきました。だから『これは普段と同じ振動だよ』と教えたりしました」

中嶋は1991年いっぱいでF1を退き、自ら率いるチームの運営に携わるとともに、TV放送でF1解説者を務めた。
「最後にセナと会ったのは、僕がF1を辞めた次の年、マクラーレンに乗って日本GPへ来たときでした。僕は当時テレビの仕事をやっていたので、取材でピットロードを歩いているときに会いました。軽く挨拶をしただけでした。亡くなったときは悲しむことしかできませんでした。僕とセナは“知り合い”でしたから」
中嶋悟/元F1ドライバー NAKAJIMA RACING総監督
1953年愛知県出身。高校在学中にレーシングカートを始め、実兄が経営するガソリンスタンドで資金を稼ぎながらレース活動を始める。1973年鈴鹿シルバーカップレース第1戦でデビュー戦3位の好成績を収め、1975年に鈴鹿FL500チャンピオンを獲得。1977年にヒーローズ・レーシングに抜擢され全日本F2000選手権に参戦しランキング3位、ノバ・エンジニアリングから出場したFJ1300ではシリーズ7戦を全勝しチャンピオンとなる。1978年は鈴鹿F2選手権王者となり、イギリスF3選手権にスポット参戦。1984年からHondaの国内F1テストドライバーとなり、ウイリアムズ・Hondaの開発に貢献。全日本F2選手権では1986年までに5回タイトルを獲得と国内で圧倒的な強さを見せた。同年に国際F3000選手権に出場しながら、8月にF1参戦を発表。1987年にロータスから日本人初のフルタイムF1ドライバーとしてデビューし、1990年にティレルに移籍。1991年ティレル・Hondaで戦い、この年をもって引退した。F1最高位は4位。引退後はNAKAJIMA RACINGの総監督として国内レースで活躍。SRS-F校長や日本レースプロモーション会長も歴任し、モータースポーツ振興に努めている。