セナに鍛えられた
HondaF1エンジン
田辺豊治/HRC 4輪レース部開発室 チーフエンジニア

最速を求めるが故の要求の高さ
2019年F1第9戦オーストリアGP、Hondaは待望のF1第4期初優勝を果たした。優勝したマックス・フェルスタッペンとともに表彰台にはHondaF1テクニカルディレクターの田辺豊治が登壇し、多くの祝福を受け控えめながらも満面で喜びを表していた。田辺は、第2期、第3期、第4期とHondaF1活動に主要なエンジニアとして関わり、その経験と実績から第4期では2018年から現場エンジニアのトップを担った、F1をよく知るスペシャリストである。
「子供の頃からクルマが好きで、自動車会社でクルマを作ってみたいと思っていました。それで大学は機械工学科にいき、ちょうど卒業のタイミングでHondaがF1に復帰すると聞き、面白そうだと思って試験を受け、幸運なことに入社できました。和光研究所に配属になって量産エンジンの開発部署にいたのですが、『レースがやりたい』と言ったら1986年からF1エンジン開発に異動となり、耐久テストや発送前のチェックなどをやらせてもらいました。1986年後半からは現場にも行くようになり、データエンジニアとしてチームやドライバーと接するようになりました。データエンジニアとは、マシンからデータを吸い出して解析し、まずはエンジンの健全性や耐久性を確認します。ドライバビリティなどに関わる部分もデータで解析し、ドライバーに状況を説明し、リクエストなどを受ける仕事です」
ネルソン・ピケやナイジェル・マンセル、そしてアラン・プロストなどトップレベルのドライバーと接した田辺だが、そのなかでもアイルトン・セナはもっとも印象的だったと言う。
「ドライバーはそれぞれ皆さん個性的でしたが、やはりセナが一番印象深いですね。彼は速く走るために、エンジンのレスポンスやドライバビリティ、そしてパワーや信頼性などすべてに関して自分の要求レベルに達していないところを指摘してきました。例えばドライバビリティが悪いからデータで何とかしてくれとリクエストされ、我々はデータを変えたり、いろいろなトライをしながら要求に応えようと頑張り、その後にセナが乗ってまた評価する。直ってないと『直ってないじゃないか』、直ったら『いいね』と言って、良ければその後タイムがポンと上がる。また、レースでエンジンが壊れると、自分のエンジンも当然ですが、Hondaの他のエンジンが壊れたとなると、次のレースやサーキットに行くと、挨拶するなり『あのエンジンはどうだったんだ? 何が悪かったんだ? どうするんだ?』ときます。貪欲なまでに解決策を求める。走って調子が悪いと、『次のセッションまでに何をするんだ?』その繰り返しが週末3日間あって、レースが終わるといろんなコメントが出てくる。で、『次のレースまでにどうするんだ?』と。で、次会えば『どうしたんだ?』と、その繰り返しでした」

驚くべきセンシング能力
セナのマシン、エンジンへの指摘、要求は他のドライバーよりその頻度もレベルも高かった。そしてセナのドライバーとしてのセンシング能力は驚くべきものだったという。
「セナの言ってくることは本当に正確でした。我々はデータをベースに仕事をしますが、彼はドライバーとしてのセンサーを含めてフィードバックしてくれる。嘘がない。我々は真摯にデータに向き合う。彼も真摯にクルマの挙動やエンジンのレスポンスに向き合って話をしてくれる。それで、我々としては答え合わせをすることができました。すごいなと思ったのが、『スロットルペダルが全開になってない』とセナが言い出し、測ってみたら2mmくらいストロークが足りなかったんです。『セナ足』という言葉がありますが、初めてデータを見た時には、スロットルセンサーにノイズが乗ったんじゃないか、センサーがおかしいと、後藤治さんが大騒ぎするような事態になりました。よくよく調べてみると『いや違う、セナが自分でこうやっている』と。それ以外にも驚きはいっぱいありました。あんなスピードで走っていて、なんでそんな細かいことまで、何周目のどこでどうしたとか、『なんで覚えているんだろう?』というくらい細かくフィードバックしてくる。多くのドライバーも似たようなものを持っているのですが、セナの場合は、さらに一段上という感じでした」

さらに高いレベルを、迅速に追い続ける
セナの要求に応える努力とともに、HondaF1エンジンはその実力を高めていった。
「若かった我々がセナに要求を突きつけられ、答えを出さないとさらに追い込まれるみたいな、なんとかして答えを持っていくというプロセスを繰り返し、本当にセナに鍛えられたと思います。『まあいいじゃないか』というのはまったく通用しない。とことんやる。それもスピードを重視して、次に走るまでにやる。セッションが終わると次のセッションまでに。1日目が終われば2日目までに。レースが終わると次のレースまでに。とにかく宿題の嵐で、ちゃんと答えを書いて、答えがあっていないとさらに怒られて、みたいな(笑)。その繰り返しで、我々もレースに向き合う姿勢や、ミスは絶対に許されない危機感とか、さらにいいものを追い続ける、しかも迅速にやる、ということを学んだと思います。そう言うものをセナに叩き込まれたと思っています。チーム全体もですし、私個人としてもそうでした」

田辺は1990年からゲルハルト・ベルガーの担当エンジニアとなり、1992年最終戦オーストラリアGPではベルガーによる第2期最後の優勝に貢献した。そして第3期では2006年第13戦ハンガリーGPで優勝したジェンソン・バトンの担当エンジニアとして現場で喜びを分かち合った。その後アメリカでのレース活動では、佐藤琢磨の2017年インディ500優勝の際にも現場エンジニアとしてその場で栄冠を分かち合っている。
「私個人としては、本当に幸運なレースキャリアだったと思います。いま思えば、第2期の若造の時に、『少しでもミスをしたらレースを台無しにしてしまう』という緊張感や恐怖感、一日24時間ずっとレースのことを考えていなければならない密度感、1分1秒でも早く仕事を進める速度感など、大切なことを多く学んだことがこれらの幸運と結果に繋げてくれたと思っていますし、そういった意味で、我々を鍛えてくれたセナには本当に感謝しかないですね」
田辺 豊治(たなべ とよはる)
株式会社ホンダ・レーシング(HRC)
四輪レース部 チーフエンジニア
1960年東京都出身。玉川大学工学部卒業後、1984年本田技研工業(株)入社。市販車エンジン開発に携わった後、1986年からF1活動第2期に参加。データエンジニアを経てゲルハルト・ベルガーの担当エンジニアとして活動。F1活動休止後は1993年アメリカン・ホンダでチャンプカー・ワールド・シリーズ(CART)用エンジン開発に携わる。2003年からF1活動第3期に復帰、ジェンソン・バトン車を担当する。2008年にF1エンジン開発担当者に昇格。2013年にホンダ・パフォーマンス・デベロップメント(HPD)のシニアマネージャーおよびレースチームチーフエンジニアを兼任し、インディカー・シリーズ用エンジ供給を担当。2017年佐藤琢磨のインディ500制覇に貢献する。2018年から第4期F1活動に合流。ホンダF1テクニカルディレクターとしてF1パワーユニットの現場管理を担当。2021年のマックス・フェルスタッペン戴冠の原動力となる。