愛すべき、
素顔のアイルトン
小倉茂徳/モータースポーツジャーナリスト

飾り気がない、ごく普通の人
アイルトン・セナと初めて会ったのは、1987年の開幕戦ブラジルGPのパドックだった。当時、私はHondaF1チームの広報業務を請け負う会社に入社して3か月目。初のF1での現場仕事だった。私はF1の現地での広報対応とHonda・モーター・ホームという現地でのホスピタリティ施設の運営管理も担当していた。
この年からHondaはウイリアムズに加えてロータスにもエンジンを供給。ウイリアムズはネルソン・ピケとナイジェル・マンセル、ロータスは日本人初のフルタイム参戦ドライバーとなった中嶋悟とアイルトン・セナという体制だった。1987年はこの4人で前年獲り逃したドライバーズチャンピオン獲得を目指すときだった。

なかでもアイルトンのブラジルでの人気はすごいもので、まさにスタードライバーだった。が、実際に会ってみると、スターだというような尊大さはなかった。
Hondaの1987年の広報用のポートレイトを撮影したときも、全ドライバーにHondaの帽子をかぶってもらったが、アイルトンだけは撮影後に帽子を脇に抱えてしまった。まるで小さい子供が欲しいものを大切そうに抱えて「これはボクのだよ、あげないよ」というような可愛らしいしぐさと表情をする。もちろん帽子はあげた。
アメリカではホテルのロビーにいたら空港からのタクシーからアイルトンが降りてきた。大きな荷物がいっぱいだった。「ひとつ荷物持ってあげるよ」というと「ありがとう、でもいいんだ。悪いから」という。まったく飾り気がなく、ごく普通の人だった。
イギリスGPでは、初日の夕方にHonda・モーター・ホームにアイルトンがやってきた。英国の夏の夕方は夜9時過ぎか10時近く。メディアの人たちはすべて帰ったあとの時間だった。
「灯かりが点いていたから、まだいるかなと思って来てみたんだ」と、アイルトン。その隣には女性がいた
「ボクの新しいガールフレンドなんだ。チームにはいま紹介してきたんだ。君にも紹介できて良かったよ」といいながら、嬉しそうなアイルトンはその女性の肩を抱いて、夕暮れのなかを二人でパドックから駐車場へと歩いて行った。アイルトンもガールフレンドも派手さがなく、ごく普通のカップルだった。まるでティーンエイジャーの青春を扱った映画のシーンのようだった。

勝負師ならではの気難しさ
反面、アイルトンは、走ること、勝つことに対しては、人が変ったように貪欲だった。Hondaエンジンを得るとすぐに「ブースト圧」とか、Hondaのエンジニアたちの会話を聞いて日本語で用語を覚えていた。また、土曜日の予選後にサーキットの外でスポンサーのイベントなどに出席しても、その後またサーキットに戻ってくることもよくあった。当時のHondaチームは、決勝に向けてエンジンを交換し、レースチーム側が車両に載せたエンジンを始動するところまで立ち会ってからホテルに帰っていた。だが、そこにアイルトンが戻ってくると、また決勝に向けてHondaのエンジニアたちといろいろと質問と話し合いが始まった。Hondaのスタッフたちの帰りは遅くなるが、勝ちたいという共通の思いに、Hondaのスタッフたちもアイルトンの訪問は歓迎だとしていた。
一方、アイルトンの表情が大きく変化するときもあった。1987年ハンガリーGPの木曜日にピケが翌年ロータスに加入することが発表された。これは、マクラーレンへの移籍を画策していたアイルトンにとって大打撃だった。ロータス残留のカードをちらつかせながら、マクラーレンからより良い契約条件を得ようと交渉していたからだったそうだ。
「桜井いる?」と、アイルトンは木曜日の夕方にHonda・モーター・ホームに来た。その表情は見たことがないほど不安でいっぱいでおどおどした態度だった。
桜井とは当時のHondaF1チームの総監督桜井淑敏のことだった。だがアイルトンが来たときはすでにホテルに帰ったあとだった。このことを知ると、アイルトンはひどく落胆した。チームの宿泊先のデータはわかっていたので、これをメモにしてアイルトンに渡してあげると表情がパッと明るくなり、アイルトンは笑顔でお礼を言うと大急ぎでパドックを後にした。まだ携帯電話がない時代のことだった。

1988年アイルトンはマクラーレン・ホンダに加入したがそこにはチャンピオンのアラン・プロストがいた。ジョイントナンバーワン体制は、シーズンの早い段階からアイルトン対アランの対決となり、この年16戦15勝という輝かしい記録を樹立したが、チームのガレージ内は常に高い緊張感が漂っていた。
そんななかメキシコGPではレース後の夜にアランがHondaのチームオフィスに優勝のお礼を言いに来た。みんな「おめでとう」とか祝福した。私も最後にアランにフランス語で祝福の声をかけた。が、次の瞬間、オフィスの外で僕たちの会話を聞いていたアイルトンの姿が目にはいった。アイルトンは不満そうな顔をしてプイっと振り返ると、そのままその場を去ってしまった。そして、しばらく口をきいてくれなくなった。前年にもそんなことがあった。アイルトンはやきもちやきで、常に自分の味方でいることを求めてくるタイプだった。こちらは広報担当として全Hondaドライバーに平等に接しなければならない。歳が近かったぶんアイルトンと私は比較的仲が良かった。そのぶん私が彼のライバルと親しげに話しをすることが許せなかったのかもしれない。その後もちょっと距離のある関係ではあったが、1993年の日本GPと翌年のパシフィックGPで円満に解消された。秋の日本GPのときには以前のようにまた二人でいろいろ話したりできそうだと思った。だが、その直後のサンマリノGPでアイルトンは召されてしまった。
3度のワールドチャンピオンをHondaとともに獲得し、F1史に残るスタードライバーとなったアイルトン。メディアに追われるあまりやや素っ気ない態度もとるようにもなったが、本当のアイルトンは無邪気で、素朴な人柄で、ただ速く走って勝つことに全力を注いだ純粋な青年だった。
小倉 茂徳(おぐら しげのり)
モータースポーツジャーナリスト
1962年東京都出身。大学卒業後一般企業に就職するも、翌年の1987年にモータースポーツ企業に転職。同社の業務としてHondaF1チームの現地広報と現地のホスピタリティユニットの運営管理を2シーズン担当。1992年までHondaF1に関する広報業務にかかわる。1996年よりフリーランスとなり、ジャーナリストやテレビ実況の解説者などを務める。また、子供向けのレーシングカーをもとにしたSTEM教育イベントも実施している。