Hondaには
セナという英雄が必要だった
中部博/ノンフィクション作家

卓越したインテリジェンス
初めてアイルトン・セナの走りを見たのは1986年のF1第12戦オーストリアGPで、その頃はオステルライヒリンクと呼ばれた現在のレッドブル・リンクだった。
この1986年シーズンは、F1グランプリの世界選手権が制定されたとき以来の最大のパワー競走を展開していた。1.5ℓターボ過給エンジンの最盛期である。しかもこの1986年までは過給圧が無制限で、燃料成分も規則がなかったから、予選のタイムアタックでは1500馬力の戦いになっていると噂されていた。その噂を肯定するかのように、走行中のエンジンが突如と爆発して、部品がバラバラに飛び散り火災が発生するアクシデントを目撃し、パワー競走の凄まじさに驚いたものである。
Honda F1チームはその刺激的な1馬力/ccパワー競走を楽しむかのように、ターボ時代のF1の先頭を突っ走っていた。1983年の第2期F1活動開始以来、難関辛苦をなめた3年間をすごし、いよいよウイリアムズ・ホンダV&ターボRA166Eが勝利を重ねるようになり、コンストラクターズ・チャンピオン獲得に照準をしぼっていた。
レースに参加するならば勝たなければならないという絶対的なモラルがHondaにはあるが、このときはもっと大きなモチベーションに突き動かされていた。この年に80歳になろうとしていた創業者の本田宗一郎の目が黒いうちにF1グランプリのチャンピオン・タイトルを日本へ持ち帰り捧げたいというミッションである。「私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競走の覇者となることであった」と宣言している本田宗一郎だったが、高齢になってからいくつかの大病を患っており時間が限られていることは暗黙の諒解であった。その年にまだ創業38年のHondaの全従業員は、本田宗一郎へのゆるぎのない敬愛の気持ちをいだいていた。
この1986年シーズンにおいて、セナはロータス98T・ルノーV6ターボを駆って戦っていた。ポールポジションの常連であったが、レースではマシンのパフォーマンス不足で勝ちきれず、2勝するにとどまっていた。
しかしその走りは、シンセサイザー音楽のようにスリリングで、きらりと光る透明感と近未来性にあふれていた。当時のF1グランプリのドライバーたちは、闘牛士にたとえられる古風なマッチョ主義の男たちとみられていたが、セナはちがった。
セナの勇気や速さは、新時代的な洗練を感じさせた。それはデジタル時代のインテリジェンスであり、ボーイ・ソプラノのような叫び声であって、現在の言葉でいえばジェンダーレスの魅力があり、当時の言葉でいえばポストモダンの新人類だった。
「Hondaはこういう新時代のドライバーと組めばいいのに」と思った。なぜならば1986年時点で、Honda F1チームは目前のチャンピオン獲りに夢中だったが、Honda最大の目的は1960年代にオートバイ・グランプリを制覇したときのように、F1グランプリの歴史にHondaの時代を築くことであった。
しかしそれはいくつ勝ち星を重ねても実現できない。圧倒的に強いエンジンがつくりだした人間と技術の哲学物語がなければ、Hondaの時代の到来を同時代の人びとは認めはしない。Hondaは技術と哲学を求めてレースに挑戦し成長してきた人間集団であったから、その物語を提示しなければならない。そのためには主役たるF1ドライバーという人間が必要になる。近代の物語の主役はつねに人間であり、哲学なき覇者の物語は伝説になりえない。
その主役をセナにするべきだと考えるのは、ひとりのファンの妄想だけではなかった。Hondaは先刻承知していたのだ。
その1986年の5月、モナコGPにおいて、セナとHonda F1チームのリーダーが水面化で会談し、すでに意気投合していた。会談を呼びかけたのはセナで、Hondaは二つ返事で応じたという。どちらにとっても自明の理というものだろう。
セナは世界チャンピオンになりたいという夢を素直に語り、その純粋な言葉がHonda F1チームの現場リーダーを感激させた。両者は合意のうえで近未来の計画を立案していった。極秘裏にセナとHondaの時代の開拓が始まっていた。
「異邦人」としての共闘感
1986年の春から夏にかけて、セナとHonda、そしてマクラーレン・チームが加わって立案した複数年の計画は、1987年にセナが所属するチーム・ロータスへHondaがエンジンを供給し、翌1988年はセナがマクラーレンへ移籍するのを契機としてHondaがマクラーレンとパートナーシップを組む。このセナとHondaとマクラーレンのパッケージは、Hondaが第2期F1活動を休止する1992年まで継続された。これがセナを主軸にしたHondaとの6年間である。
セナは1988年と1990年と1991年に3度もワールドチャンピオンに輝いたが、そのマシンはすべてマクラーレン・ホンダであった。
まさにセナとHondaの時代であったが、セナが多彩なライバル・ドライバーにめぐまれたことを忘れてはならない。ライバルたちと白熱したレースを展開し、迫真のシーズンになってこそ物語は豊かな人間味をもつ。そのライバルとはネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル。アラン・プロストで、セナを入れて「ドライバー四強の時代」と呼ぶ人もいる。そしてまた、この4人全員がHonda F1エンジンのユーザーを経験し、そのうち3人がHonda F1エンジンでチャンピオンになっていることから、Hondaの時代が多重多層の人間の物語で構成されていたことがわかる。
セナとHondaが意気投合した背景には、典型的なヨーロッパ現代スポーツであるF1グランプリからみると、ブラジル人のセナと日本のHondaは共に異邦人の立場になるから心情がわかりあえたという分析があった。今日でいえばグローバル・サウス的な地政学をベースにした分析である。その要素はけしてゼロではない。日本メーカーの二輪四輪やテレビやカメラなど工業製品が世界市場へ進出していく時代にブラジルで育ったセナが、日本のHondaをリスペクトしていたのはたしかだ。
しかしやはり、セナとHondaが同志的な関係をむすんだのは、走る才能を猛烈な努力で磨くセナの生き方に、Hondaが惚れたからだろう。

仲間としてHondaに溶け込む
Honda第2期のF1プロジェクトの総責任者であり、後に第4代社長となった川本信彦は、セナについてこう語っている。
「F1の現場へ行っている連中が、アイルトンは凄いと言い出したんだ。(当時の)ドライバーはエンジンのデータ・グラフなんかに興味を持たないんだけど、彼はそれを見せてくれと、説明してくれと言ってきて、一生懸命に学習してデータを理解するようになった。インテリジェンスがあるんですよ。そうなるとウチのエンジニアと対等に議論して、非常に突っ込んだ会話をするようになった。(一般的に)ドライバーは『このエンジンは駄目』と言うだけだけど、アイルトンは『こういうふうに改良しよう』と熱心に言ってくる。エンジン開発は進むし、アイルトンは勝つし、ウチのエンジニアは結果が出るから喜んじゃうし、ようするにウチの開発ドライバーみたいな役まわりになっていった」
セナの研ぎ澄まされた感覚は開発ドライバーの役に最適であった。800馬力のHonda F1エンジンの乗り比べテスト走行で3馬力のちがいを指摘したという逸話を残している。
川本は「お互いに忙しいから、ごくたまに時間があえばメシ食うとか、電話がかかってきた」と言い「アイルトンと話していると信頼が深まっていった」とも言った。セナが苦境にあったときは電話でアドバイスを伝えている。「アイツは長男なんだけど、甘えん坊のところがあるからな」とポロリともらした。これはHondaとその契約ドライバーという関係を超えて心をゆるした友だちを語る言葉だ。
実際セナと食事のテーブルを囲むとわかるが、彼は物静かに人の話を微笑みながら聞き、話題がとぎれると自分から興味深い話を始めるというジェントルマンであった。慇懃無礼なところがまったくなく、自然なふるまいで他者への気配りができる。日本式のカラオケを初めて経験したときには、嫌な顔をするどころが真剣な目をして『YESTERDAY』を歌い、同席していた実弟が歌うのを戸惑っているとセナが立ち上がって今度は『CAN'T HELP FALLING IN LOVE』を歌った。いい兄貴なのである。歌い慣れていないのは当然だろうが、精一杯真面目に歌う姿がすがすがしかった。

どんな場においても最善を尽くすのがセナの流儀であった。F1グランプリのピットでも走り終えるとさっさと引き上げることをしなかった。たとえばHondaの技術者たちがエンジン交換を始めれば、それが終わるまで時間があるかぎり作業を見守っていた。あらゆる現場では、そこで働くスタッフ全員ひとりひとり平等に、セナは自分から挨拶をするのである。
そのようなセナを当時のHondaの人たちはHondaの仲間だと思っていただろう。F1スーパースターという特別な存在であるはずのセナは、そのことをひけらかすことがなかった。それは本田宗一郎が従業員と同じ白いユニフォームを着て、同じ社員食堂で列に並び、同じテーブルで食事をしていたことを思い出させる。
あるグランプリの木曜日の夜にセナをホテルの部屋まで送っていったことがある。セナの後ろ姿を見送っていると、彼が思考の時間に入ろうとしていることに気がついた。セナはひとりになると何度もレースの予測を考えるのだと言っていた。ひとつのサーキットのすべてのコーナーの形状から路面状況までをイメージして何度も頭脳のなかで走る。雨と曇りと晴天の走り分けも考える。レースのスタートから、第1コーナーの混戦、レース中のバトル、タイヤやマシンの変化、そしてフィニッシュまで、さまざまなケースにわけて何度も何度もセナは脳内でレースをする。その延々たる時間が楽しいとさえ言っていた。即興のレースを得意とするドライバーもいるだろうが、これはブレイン・シミュレーションあるいは瞑想とも呼ぶべきセナの武器のひとつであった。

永遠のヒーローとして
セナが3度目のチャンピオンを獲得した1991年シーズンにHondaは第2期F1活動を1992年いっぱいで休止すると決定した。
F1グランプリの歴史にHondaの時代を刻み込んだ膨大なエネルギーと資源を、次の企業的成長段階へと振り替えなければならない時期がきたからである。
そのときにセナと、どのような話をしたのか。川本信彦はこう言っている。
「ウチがF1をやめるって決めたとき、すぐにアイルトンに会った。謝らなければならないことがあったからね。それまで彼と会えば『ファンジオの5タイムス・チャンピオンの記録(当時)を破るのが俺たちの夢だ』って話していたんですよ。だから詫びなければならない。逃げて申し開きしても仕方がない。素直に話して、詫びたほうがいいと思った。そのとき僕は社長という役まわりだから責任があります。それで『申し訳ない。会社の状況を考えるとしょうがない。お前さんと話し合った夢は達成できなかったけれど、これからはお互い別の世界で生きていくけど、頑張ろうよ』と言った。アイルトンは分かってくれた」
セナの人間性とスーパースターとしての魅力については、Honda創業者の本田宗一郎の言葉が、その真髄をずばりとあらわしている。
「F1グランプリでセナほど私を楽しませてくれたドライバーはいない。限界ぎりぎり危険なかぎりに近づきながら、すべてのリスクを計算しきっている」
アイルトン・セナ・ダ・シルバは1994年F1グランプリ第3戦サンマリノGP決勝レースで、ウイリアムズFW16B・ルノーRS6Bをドライブ中の事故により死亡した。34歳であった。
この急報をうけたHondaは、Honda青山ビル1階のウエルカムプラザに、セナへの哀悼の意を込めてマクラーレンMP4/6・HondaRA121Eを急遽展示した。黙祷をささげる多くのファンが引きも切らず訪れ、赤と白にカラーリングされたマクラーレン・ホンダはファンがたむけた花束にうずもれた。
中部 博(なかべ ひろし)
ノンフィクション作家
1953年東京都出身。週刊誌記者とTV司会者をへてノンフィクション作家となる。編著書『暴走族100人の疾走』でデビューし、代表作に『いのちの遺伝子 北海道大学遺伝子治療2000日』『炎上 1974年富士•史上最大のレース事故』『プカプカ西岡恭蔵伝』があり長編作品が高い評価を得ている。またHondaに関する著述も多く、『定本 本田宗一郎伝』『1000馬力のエクスタシー HONDAF!世界制覇への道』『光の国のグランプリ ワールド•ソーラー•チャレンジ』『アメリカ•ホンダ•レーシング』『ホンダ式 高収益•自己実現の経営』『スーパーカブは、なぜ売れる』『風をあつめて、ふたたび。』などを上梓している。