伝説の軌跡

弔いの必勝から3度目のタイトルへ

1991年8月11日第10戦 ハンガリーGP(ブダペスト)

ハイテク化するF1で遅れをとる

1991年、母国ブラジルGPでの悲願の初優勝を含め開幕戦から4戦連続ポール・トゥ・ウインを成し遂げ、連続チャンピオン目指して絶好調に見えたアイルトン・セナだったが、当の本人はことあるごとに「マシンの仕上がりが良くない」と言い続けていた。V12に改められたエンジンはパワフルだが重量は如何ともしがたく、マシン全体のバランスを崩していた。アクティブ・サスペンションを始め最新技術で武装したウイリアムズ・ルノー陣営の戦闘力が急激に上がってきている様子を見て、セナは焦りも感じていた。第6戦メキシコGPの予選初日には、高速の最終コーナーでスピンし、タイヤバリアに衝突しマシンが横転するという、セナにしては珍しい事故にも見舞われた。怪我はなかったが、シーズン序盤の活躍が嘘のように第5戦から第9戦まで1勝も挙げられず、調子を乱してしまっていた。この間ウイリアムズは2台で4勝を挙げて、コンストラクターズ・ランキングではウイリアムズ71点対マクラーレン70点と遂に順位が逆転する事態になっていた。

亡き創始者に捧げた貴重な1勝

8月5日、Hondaの創業者である本田宗一郎が84歳で亡くなった。その直後に迎えた第10戦ハンガリーGP、Hondaのドライバーたちはレーシングスーツの上に黒い腕章を巻いてコクピットに就いた。ブダペストに設けられた曲りくねった低速コースは、追い越しが難しいサーキットで、ライバルであるウイリアムズが得意としているコースでもあった。土曜の予選終盤、セナは最後のタイムアタックで2位のリカルド・パトレーゼ(ウイリアムズ)を実に1.2秒も引き離す大差で、第4戦モナコ以来のポールポジションを奪取する。決勝レースでもセナの走りは完璧だった。スタートからトップに立ったセナは2番手以下を従えて周回を重ねるが、低速コースの特徴で差を広げることはなかなかできずに接近戦が続いた。

45周目に入るストレートで2番手のパトレーゼは背後の3番手ナイジェル・マンセルに自分を抜くよう右手で合図した。セナの鉄壁の守りを崩せないと判断したパトレーゼは、マンセルにその役目を交代するよう促したのだ。マンセルは厳しいアタックでセナを攻め続けるが、セナは動ずることなく首位をひた走る。スタートから1時間50分、セナはトップの座を守り切り、ポール・トゥ・ウインで久々となるシーズン5勝目を挙げた。チームメイトのゲルハルト・ベルガーが4位となり、コンストラクターズランキングでは83点対81点でマクラーレンが再び首位を取り返した。

ウイリアムズ・ルノーに傾き掛けていたシーズンの流れが、このレースで止まった。セナとチームによる亡き本田宗一郎に捧げる特別なこの1勝によって、結果としてセナが再び好調を取り戻すきっかけとなっている。

そしてタイトル争いは、第15戦日本GPの決勝、わずか10周目にマンセルが2コーナーでスピンしてグラベルに飛び出した時、勝敗は決した。タイトルが決定したセナは、レース後半首位を快走していたが、最終ラップの最終コーナーで大きくスローダウンし、チームメイトのベルガーにシーズン初勝利をプレゼントした。意外な幕切れに15万人の大観衆はどよめいたが、セナとチームのタイトル獲得に大きく貢献したベルガーに対する、セナが感謝を表したものと後から知ることになるのであった。

年間7勝を挙げたセナは、自身3度目のワールドチャンピオンを獲得した。そして、結果的に、これがセナにとって最後の栄冠となった。