伝説の軌跡

レースへの闘志を呼び覚ました、新鋭との激闘

1990年3月11日第1戦 アメリカGP(フェニックス)

オフの騒動に意欲を失っていたセナ

1990年、前年からのスーパーライセンス剥奪騒動がオフシーズンまで続き、アイルトン・セナは嫌気がさして「もう走らないつもりだった」と後に話すまでに追い込まれていた。マクラーレンやHondaなど周囲の尽力により、最終的にFISA(国際自動車スポーツ連盟)会長ジャン=マリー・バレストルとセナが表面上は和解するという決着をつけ、セナには開幕戦直前にスーパーライセンスが発給され正式に参戦が決まる。そして、マクラーレン・ホンダにはフェラーリからゲルハルト・ベルガーが移籍し、セナのチームメイトとなった。

この年はシーズン開幕戦が初めてアメリカで行われた。舞台となったフェニックスは3月上旬の開催ということもあり、気温も上がらず天候も不安定な状況だった。それに加えて、各チーム新体制での初戦であり、不慣れなストリートコースという不安定な要素が多く、予選から予想外の展開となった。予選1位のベルガーと5位の僚友セナのタイム差0.8秒の間に、ピエルルイジ・マルティニ(ミナルディ・コスワース)、アンドレア・デ・チェザリス(ダラーラ・コスワース)、ジャン・アレジ(ティレル・コスワース)といった伏兵たちが名を連ねグリッド2~4位を奪った。いつもなら中団以下の彼らが躍進した最大の理由はタイヤだった。グッドイヤー優勢のなか、1989年にF1復活参入したピレリは中団以下のチームにタイヤを供給していたが、この予選では不安定なコンディションが見事にはまって、ピレリ勢が好タイムを連発させたのだった。

新世代からの挑戦に闘志目覚める

決勝レースのスタートで先頭に立ったのはなんとアレジだった。ポールシッターのベルガーが後続を牽制してラインを変えたのを逆手に取り、1コーナーでイン側からトップを奪うと、その座を34周目まで守る健闘を見せた。前年半ばにF1デビューしたばかりのフランスの新鋭、25歳のアレジはこのレースで一気に注目株にのしあがった。序盤の混乱から着実にレースを運んだセナは、9周目に2番手に上がると先行するアレジとの差をじわじわと縮めていく。そして34周目の1コーナー、ブレーキング競争でアレジのイン側右を差してトップに立った。ところが直後の左直角ターンで今度はアレジがイン側左から抜き返す荒業を繰り出してセナからトップを奪い返した。虚を突かれた形のセナは、1周後に同じ右コーナーでアレジを抜くと、次の左コーナーではアレジのイン側を抑えてアレジを封じた。が、果敢にアウト側から攻めるアレジ。2台は並んだまま次のコーナーへ進入したが、セナはアレジの先行は許さなかった。そして、セナは以後チェッカーまでその座をひた走った。「1周後の同じコーナー」でやり返すあたりが、負けず嫌いのセナらしい一面だった。セナが1984年に24歳でF1デビューを果たしてから、年長の先輩たちを打ち負かすことばかりに没頭していた。それが今回、自分より若い新鋭が初めて勝負を仕掛けてきて、ちょっと油断したら抜き返されてしまった。ハッと目覚め、本気にさせられたセナは、レースを楽しみ、嬉しかったに違いない。若手とのコース上での迫真のバトルを楽しんだセナは表彰台の中央に立ち、2位アレジがアナウンスされる間拍手をし続け、勝利のシャンパンを抜くと真っ先にアレジに降り注ぎ、心から祝福したのだった。

この年のチャンピオン争いは、セナとフェラーリに移籍したプロストの一騎打ちとなった。最終的にセナが6勝、プロストが5勝でセナが2度目のワールドチャンピオンに輝き、3年間に渡った「セナ対プロスト」の対決に終止符を打った。