Hondaとともに3度の王座を獲得
その栄冠はすべて鈴鹿で決まった

1987年イタリアGP、Hondaはマクラーレンへのエンジン供給とともにアイルトン・セナの移籍を発表した。セナとHondaがともに頂点を狙う道の始まりを宣言したのである。2度のチャンピオン経験をもつアラン・プロストとセナのコンビ、そして当時天才デザイナーとして君臨していたゴードン・マーレイの手による車体とHondaエンジンの組み合わせは、まさにドリームチームと言える陣容だった。
1988年Hondaは過給圧制限を受けながらもターボ継続を選択し、それまでのアドバンテージを継続してシリーズ全16戦中15勝を挙げる快挙を成し遂げる。タイトル争いは同じチームのセナとプロストの一騎打ちとなり、第15戦日本GPでスタートでの出遅れから劇的な逆転優勝を遂げたセナが有効ポイントでプロストを上まわり、初のワールドチャンピオンに輝いた。
翌1989年もマクラーレン・ホンダの優位性は衰えを見せず、この年は全16戦中10勝を記録。またもセナとプロストの一騎打ちでシーズンは推移したが、セナに対し劣勢となったプロストは不満を語り、シーズン後半でマクラーレンを離れる道を選ぶ。王座決定戦は再び日本GPとなったが、レース終盤47周目のシケインでセナとプロストが接触。セナはその後も走り続けトップチェッカーを受けるも失格裁定がくだり、タイトルはプロストが奪取したが、ふたりによるチームメイト対決は熾烈を極め「セナ対プロスト」はF1のトレンドとなった。
1990年、上り調子のフェラーリにプロストが移籍したことにより、「セナ対プロスト」の戦いはより鮮明になった。3度目の決着はまたも鈴鹿。セナはラバーグリップの良いアウト側へのポールポジション位置の変更をオフィシャルに提案するも、FISA(国際自動車スポーツ連盟)の許可が下りず、レースでは有利なアウト側の2番手からスタートしたプロストが先行する。プロスト攻略を狙ったセナとプロストは1コーナーで衝突し、両者リタイアによってセナの戴冠が決まった。
セナ3度目のタイトル獲得は翌1991年。プロストはフェラーリ低迷によりライバルから脱落し、代わってウイリアムズのナイジェル・マンセルがライバルに名乗りをあげた。王座決定がかかる日本GPで、セナはチームメイトのゲルハルト・ベルガーを先行させ、自身はマンセルの押さえ役に徹した。このバトルは10周目にマンセルが2コーナーでコースアウトし決着。3度目のタイトルを確定させたセナはその後ベルガーも抜き去りトップに立つが、最終ラップの最終コーナーで貢献者であるベルガーに勝利を譲った。
セナは4回に渡る鈴鹿決戦で、3度の世界王者に輝いた。そのすべてがHondaとともにあり、そのすべての舞台が日本の鈴鹿であったことも、セナ伝説に欠かせないエピソードとなっている。