勝率6割以上
驚異的な速さを見せたジュニアカテゴリー時代

1980年、ネルソン・ピケがF1ワールドチャンピオンを獲得し、より多くのブラジル人ドライバーがヨーロッパ進出を目指した。南米カート選手権を制し、1979年と1980年の世界カート選手権でランキング2位の新鋭アイルトン・セナ・ダ・シルバもそのひとりだった。1981年、ブラジル人F1ドライバーのチコ・セラの紹介で英国コンストラクターのバン・ディーメンからフォーミュラフォード1600(FF1600)シリーズに参戦することになったセナは、20戦中12勝という圧倒的な強さでふたつのシリーズチャンピオン(ROCとタウンゼント・トルーセン)を獲得。しかし当時ブラジリアンスターは数多く存在し、スポンサー探しに難航したセナはブラジルに一時帰国を余儀なくされた。
どうしても夢を捨てきれなかったセナはバン・ディーメンと交渉し、1982年開幕直前に英国に戻りFF2000に参戦。イギリス選手権18戦16勝、ヨーロッパ選手権8戦6勝と圧勝しシリーズチャンピオンを獲得した。この1年間のまわり道を経て、1983年に名門ウエストサリー・レーシングからF3にステップアップを果たした。
当時のイギリスF3選手権では、参戦2年目のマーティン・ブランドルが前年ランキング4位の実績からチャンピオンの有力候補だった。セナは開幕9連勝を挙げたが、ブランドルは2位8回と3位1回とポイントを重ね、タイトル争いはブランドルとセナの一騎討ちとなる。そして第10戦シルバーストンではブランドルがレースをリードし、セナがクラッシュしたことでブランドルが優勝。ここから流れが大きく変わり、リタイアが多いセナに対しブランドルは着実に勝利とポイントを重ね、最終戦を前にブランドルがセナを1ポイントリードしていた。勝負が決する戦いで、セナはエンジニアとともに考案したスペシャルセッティングで臨み、これが抜群の速さを生み出した。レースはセナが独走で勝利し、20戦中12勝という驚異的な勝率でシリーズチャンピオンを奪取。その年末に行われたF3世界一決定戦といわれたマカオGPでもセナは2ヒートともに圧勝し、その実力を世界に見せつけた。そして翌1984年、ついにセナはトールマンからF1デビューを果たすこととなる。