
二輪車用エアバッグ開発陣インタビュー世界初の商品化に成功
小型二輪車への普及を目指して
2025年8月現在、1世紀余の二輪車の歴史のなかで、エアバッグを搭載する市販車は2006年以降のゴールドウイングが唯一の例であり続けています。現在の製品ラインアップに掲載されているエアバッグ採用車は、Hondaの「Gold Wing Tour」および「Gold Wing Tour 50th ANNIVERSARY」のみ(ともに受注期間限定モデル)。四輪車の世界ではエアバッグは当たり前のように採用される装備ですが、二輪車用エアバッグは史実が示す通り、実用化が非常に難しい技術です。
二輪車用エアバッグ搭載市販車が発売される前の時代を知る開発者ふたりに、二輪車用エアバッグ開発の難しさ、そしてその意義をうかがいました。
- 二輪・パワープロダクツ開発生産統括部
完成車開発部 完成車研究課
アシスタントチーフエンジニア黒江 毅さん - 1992年入社。1997年から二輪車用エアバッグ開発に携わり、エアバッグを初採用したゴールドウイング(2006年)開発を担当。なお現在Hondaに在籍中の開発者としては、一番長い二輪車用エアバッグの開発キャリアを有している。

- 二輪・パワープロダクツ開発生産統括部
完成車開発部 完成車研究課
チーフエンジニア小林 祐樹さん - 2002年の入社後すぐに研究開発部門に配属され、二輪車用エアバッグ開発に携わる。主な担当は衝突判定。2018年まで二輪車用エアバッグ開発に携わり、その後品質、安全企画の部署を経て、2024年1月より現在の部署に所属。

エアバッグと、その他の乗員保護デバイスの可能性
Hondaが二輪車用エアバッグの研究を開始したのは1990年から。当時はエアバッグを含め、さまざまな二輪車用衝突安全デバイスの可能性を研究開発部門のなかで検討していました。
黒江: 私が入社したときには、先輩たちがエアバッグをやり始めていました。二輪もエアバッグで人を積極的に救うことを考えていかなければ、と当時先輩たちは考えていました。実はエアバッグ以外の技術も並行して、いろいろなタイプの二輪車用安全デバイスを研究していたのです。詳しくは言えないですが、本当にいろいろなことを検討していました。
小林: いろいろな案がありましたね。1990年からエアバッグシステムの研究を始め、2006年のゴールドウイングでの製品化まで16年かかったことになりますが、エアバッグ以外の衝突安全デバイスの研究もやっていたわけです。
黒江: さまざまな衝突安全の研究をやっているうちに、もっとシンプルに二輪車用エアバッグを追求すれば良いのではないか? と当時の福井(威夫)社長から後押しされて、エアバッグ開発を進めることになったと聞いています。1980年代後半に四輪車用エアバッグ普及が始まり、死者数低減に効果があることが明らかになりました。二輪車用エアバッグのアイデアが生まれたのは、二輪車の研究開発部門としても死者数を減らさないといけないという、危機感が出てきたことがその背景にありました。
小林: 四輪車用エアバッグが本格的に普及したのは、1990年代半ばでしたよね。四輪車用エアバッグはシートベルトを補助する装置ですが、二輪車用はシートベルトが無いのでちょっと違いますね。
黒江: 2000年に他社からシートベルトを採用した二輪車が製品化され、海外市場で販売されましたが、シートベルトで乗員保護することにはHondaでも注目していました。
エアバッグシステムを搭載するゴールドウイング(1,500cc)試作車を使っての、さまざまな形態の衝突テストを始めたのは1996年で、ゴールドウイング(1,800cc)エアバッグ採用車発売の10年前。製品として一点の曇りもない状態で、世の中に二輪車用エアバッグを届けるまでには、それだけの長い時間が必要でした。
黒江: はじめからゴールドウイングへの採用を考えていたわけではありませんでした。テスト車両でいろいろデータを取ると、衝突時の挙動に複雑なことが起きるとエアバッグの保護性能が少しずつ減っていくことが分かりました。それを踏まえて、エアバッグの搭載に適している車両は何か考えたところ、水平対向6気筒エンジンを搭載していて重心が低く、車体が大柄で重い、衝突時の挙動が穏やかなゴールドウイングからスタートしようということになりました。
小林: 私が入社した2002年のころは、ゴールドウイングのほかに大型スクーターのシルバーウイング(600cc)をベース車にしてエアバッグの研究をしていました。ゴールドウイングだけでなく、他のカテゴリーの二輪車にもエアバッグの適合可能性があるかを探るスタディをやっているタイミングでした。
小林: エアバッグを採用したゴールドウイング発売以降も、小型スクーターなどをベースにした研究は続いています。四輪車に比べると二輪車は軽いですが、その中でもエアバッグを支えることがやりやすい二輪車と、難しい二輪車があります。エアバッグを支えることが難しい二輪車でも効果的なエアバッグはどういうものなのか? という研究もやっています。
黒江: 1996年から使った、1500ccのゴールドウイングベースのテスト車両に搭載されたエアバッグシステムは、2006年に市販された製品に搭載されたものとだいぶ近い構成です。試作車と市販車のエアバッグでは形や作り方がちょっと変わっていますが、基本は一緒です。先輩方が収集してくださったデータのおかげで、どのくらいエネルギーをエアバッグで吸収すればライダーを保護できるのかという知見がうまく活きました。最初の基礎研究の段階で、大体正解に近いところまで導くことができていました。
二輪車の特性に対応するため、様々な衝突テストを実施
二輪車は衝突条件の違いにより車体挙動が大きく変化するため、このことも二輪車用エアバッグ開発を難しくする要素となります。開発陣は二輪車用エアバッグの効果検証のために、ライダー保護デバイスの研究におけるテスト・評価手法「ISO(国際標準化機構)13232」に沿ったもののほか、独自で設定した様々な条件の衝突テストを実施しました。そのために全天候型衝突実験設備を活用し、二輪車独自のコンピューターシミュレーション技術や二輪車専用ダミーを導入しました。
黒江: ISO13232のテストは二輪車と四輪車を走らせて7つの形態の衝突テストを行うわけですが、エアバッグの有無での測定が必要ですから、14回テストを行うことになります。今までやったことのないテストで、まとまったテスト回数のできる場所を探すことが求められたのですが、アメリカのアリゾナに暑くて使われる機会が少ない施設が空いていることがわかり、そこに2ヶ月間こもって評価を行いました。そのときのテストの評価をまとめるだけでも、1年くらいを要しましたが、結果的にあまり良い評価ではなかったのです。
小林: 市販化までに時間がかかったのは、この過程をふた回ししたことも影響しています。1回目のテストの総合評価が期待していたのと違う結果になったので、そこからリファインして2006年のゴールドウイングから採用されたエアバッグができあがったという形です。
黒江: もうちょっとエアバッグの効果を上げたいということで、そこから3年くらいの時間を要しました。先ほどお話したとおり、試作初期からエアバッグ自体の出来はとても良かったので、何が足りていないのかはわかっていなかったのです。じゃあどうすれば良いのかと、そこは非常に苦労しました。
小林: 担当したセンシングの部分では、ざっくりいうと開いて欲しくないとき、開いて欲しいときをどう切り分けるかと、開いて欲しいときにいかに適切なタイミングで作動させるか、という開発に苦労しました。事故の判定を早く正確にできれば、エアバッグを開かせる時間的余裕が生まれます。ただそのために敏感にし過ぎると、ちょっとした道路の轍にタイヤが入っただけで開いてしまう。その判定を設定するところが難しかったですね。
最終検証はラージ・プロジェクト・リーダー自身が・・・
黒江: ゴールドウイングのエアバッグに関しては、走行中に万が一エアバッグが誤爆して展開しても、それを起点として事故が発生しないようにしています。具体的には、視界を遮らず、ハンドルバーを握り続けることができるエアバッグ形状としているんです。最初のエアバッグ採用車では、LPL(ラージ・プロジェクト・リーダー)が実際に試作車をテストコースで走らせて、エアバッグが邪魔にならないかのテストをやりました。ユーザーに渡す前に、まずは自分たちで試さないといけないだろうと。いろいろな条件で走行しましたが、問題なく運転して帰ってきて、大丈夫だねと確認できました。
小林: 私は運が良いというか、2002年に入社して2006年にエアバッグ採用車発売と、開発の最後の4年間だけ携わって、良い思いをさせてもらいました。世界初のプロジェクトに携わるのは、大学卒業してすぐの人間にはすごく魅力的ですよね。その開発には試行錯誤や苦労もありましたが、考えながらいろいろ決めていくことはとても楽しいことでした。
黒江: 世界初のプロジェクトというのは二輪車では久々のことでしたので、開発当初から、出すぞ!という高いモチベーションがあったと思います。2005年に東京・青山の本社で報道向け発表会が開かれて、私もその場に立ち会ったのですが、すごい数の人がいてびっくりしたことを覚えています。
現在二輪車の世界でエアバッグといえば、ライディングジャケットタイプのもの、またはレザースーツに内蔵されたものが、真っ先に多くの人にイメージされるでしょう。ゴールドウイングはHonda二輪車のフラッグシップであり、所有するオーナーの数は自ずと限られます。ゴールドウイングで事故に遭い、エアバッグのおかげで被害を軽減できたという情報もユーザーから開発陣に届いていますが、その数は四輪車の例に比べると極めて少ないものです。ただ、近年の二輪車業界では、ARAS(アドバンスド ライダー アシスタンス システム)のような先進アシストの普及が進んだり、死亡率低減効果のある胸部プロテクターを着用するライダーが増加したりと、安全性を上げることへの関心が高まっています。このトレンドは二輪車用エアバッグのさらなる普及に、追い風になるのでしょうか?
交通事故死者ゼロ社会の実現をリードすることを目指して
黒江: ユーザー数の多さでいえば、嗜好品として大型二輪車に接するユーザーより、新興国で使われている小型二輪車ユーザーの方が多いです。そういう方々は小型二輪車を生活の可能性を広げるための道具として捉え、人生をかけてローンを組んで購入してくださるわけです。数の多い小型二輪車にもエアバッグが届けられるようになると良いと思います。
小林: 小さい車両はエアバッグを格納するスペースが小さくなります。また、小型車は大型車より車重が軽いので、衝突時の車体の動きが大きくなりやすいです。そのことも、小型二輪車用エアバッグの開発を難しいものにしています。2015年には、原付二種スクーターのPCXにエアバッグを搭載した実験車を公表しました。ゴールドウイング用はエアバッグを車体で支えていますが、この実験車では事故相手の車体にエアバッグを支えてもらう設計になっています。
小林: エアバッグが最適解かどうかはわかりませんが、二輪車の安全性への期待は高まっていくでしょう。ARASなどいろんな手段をミックスして、これからの二輪車の安全性を高めていくなかで、エアバッグは重要な位置付けになると思っています。
黒江: MotoGPなどのレースを観ていると、転倒でレザースーツ内蔵のエアバッグが膨らんでいるシーンを結構目にします。それも、市販されている着用型エアバッグを視聴者が意識する良いきっかけになっている気がします。
小林: 我々は車体を作っている部門ですので、まずは車体の安全性ということで、ゴールドウイング用のエアバッグを開発しました。2050年に全世界でHondaの二輪車、四輪車が関与する交通事故死者ゼロを目指すことを宣言したので、現場としては常に、そこに向けて考え続けなければならないと思っています。