Monterey Car Week 2024

モントレー・カー・ウィーク 2024

Text by 大谷 達也

HondaのF1参戦60周年を祝う祭典は、7月のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードに続き、8月には大西洋を挟んだアメリカ西海岸のモントレー・カー・ウィークでも執り行われた。

グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードとモントレー・カー・ウィークは、いずれも自動車をテーマとしたイベントで、最新モデルやヒストリックカーにくわえてモータースポーツまでを網羅するとともに、それらを静と動の両面から表現するという意味で、よく似た存在といえる。いっぽうで、両者の最大の相違は、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードが、グッドウッドにあるマーチ卿の私有地を舞台に行われる単一の催し物であるのに対し、モントレー・カー・ウィークはカリフォルニア州のモントレーを中心とする半径15kmほどの範囲で行われる様々な自動車イベントの総称とされる点にある。

モントレー・カー・ウィークのハイライトとされるのは「モントレー・モータースポーツ・リユニオン」、「ザ・クエイル、モータースポーツ・ギャザリング」、「ペブルビーチ・コンクールデレガンス」の3イベント。それぞれレーシングコースの「ウェザーテック・レースウェイ・ラグナセカ」、ゴルフ場の「クエイル・ロッジ&ゴルフクラブ」、同じくゴルフ場の「ペブルビーチ・ゴルフリンクス」で開催されることから、ファンの間ではラグナセカ、クエイル、ペブルビーチの名称でも親しまれている。

このうち、ラグナセカはヒストリックカーと最新モデルの動的なイベント、クエイルはヒストリックカーと最新モデルの静的なイベント、ペブルビーチはヒストリックカーの静的なイベントと説明できる。

つまり、この3イベントだけで、フェスティバル・オブ・スピードの役割をほぼすべてカバーしているのだが、ペブルビーチやクエイルの格式はフェスティバル・オブ・スピードに負けないくらい高く、とりわけペブルビーチに出場するヒストリックカーはその歴史的価値や価格の点で間違いなく世界最高峰のひとつであり、いっぽうのクエイルには数千万円から数億円もする最新のラグジュアリーカーがずらりと並ぶといった具合で、華やかさの点ではフェスティバル・オブ・スピードに優る一面があるといってもいいくらいだ。しかも、この期間はモントレー周辺で多種多様な自動車エキシビションが催行。そのなかには、ショッピングモールの駐車場や道端にただクルマを並べただけというような、手作り感溢れるイベントも含まれている。

いっぽうで、動的イベントは全長約1.9kmのヒルクライムが中心となるフェスティバル・オブ・スピードに対し、ラグナセカは急坂を駆け下りる名物コーナーのコークスクリューなどを含む全長約3.6kmの本格的なレーシングコースで、現在もインディカーやIMSAなどアメリカを代表するレーシシリーズが開催されている。つまり、フェスティバル・オブ・スピードよりもさらにダイナミックで迫力ある走行シーンを楽しめるのがラグナセカの特徴なのである。

このラグナセカのイベントに、HondaはF1参戦60周年を祝うべく、RA272とともに参加した。

HondaにF1初優勝をもたらしたRA272-11号車にとって、アメリカ大陸は実に思いで深い地といえる。そもそも、1965年にRA272が栄冠を勝ち取ったのは同じアメリカ大陸のメキシコであったし、そのときステアリングを握っていたのはアメリカ・カリフォルニア州出身のリッチー・ギンサーだった。したがって、今回のラグナセカ出場はRA272にとって里帰りともいえるものだったのである。

ちなみに、RA272がアメリカを訪れたのは、1965年10月3日にニューヨーク近郊のワトキンスグレインで開催された第9戦アメリカGPに参戦して以来のこと。このとき7位完走を果たしたギンサーは、続く最終戦メキシコGPで勝利の美酒を味わったのである。

   

なお、RA272は今年7月のフェスティバル・オブ・スピードに参加後、日本に戻ることなく、そのままアメリカに運ばれ、まずはアメリカン・ホンダのエントランスに飾られ、続いてラグナセカのパドックに展示されることになった。その際、ラグナセカのガレージ前に設けられた規制用の仕切りに、英米の違いがはっきりと表れているようにも思われたので紹介したい。

フェスティバル・オブ・スピードで用いられていたのは、混雑した催し物会場などでよく見かけるベルトパーテーションと呼ばれるもの。その高さは大人の腰付近で、しかもベルトの幅は10cmほどもある。それをガレージ正面の端から端まで渡してあるので、ガレージ内に入ろうという気持ちは到底、起きない。その点、イギリスでは中と外とが完全に仕切られていたというべきだろう。

 

いっぽう、ラグナセカでは地面から30cmほどの高さのところに、糸のように細いロープがグルリと張られているだけ。気をつけていなければ見落としかねないし、その気になれば中に入るのは物理的にも精神的にも容易。しかも、ロープが張ってあるのはガレージ正面と側面の2ヵ所なので、隣接するガレージからRA272を真横に眺めることも可能だった。それでも断りなくロープの内側に入ってくるファンはひとりもいなかったが、イギリスに比べると、観客を歓迎している意図が明確だったほか、中と外を区別する意識も弱いように感じられた。

似たようなことは、走行するマシンの誘導風景からも見て取れた。

グッドウッドでは、マシンがガレージから出入りする前にオフィシャルがロープを張り、パドック内の通路に観客が入り込まない状況を確保してから誘導を始める。したがって、ファンとマシンが接触する可能性は、原則的にありえない。

いっぽうのラグナセカでは、そのような規制線が張られることはない。いちおう、オフィシャルがホイッスルを吹くなどして注意を促すものの、その気になればマシンに手を触れられないこともない。それは、観客の自主性を重んじているともいえるし、なんともオープンなスタイルともいえるもので、やや大げさにいえば「自由の国アメリカ」を象徴しているように思えなくもなかった。

そうした意識の違いは、RA272のエンジン始動デモンストレーションを行った際の観客の反応にも表れているようだった。

イギリスのファンは、エンジン始動の様子を固唾を呑んで見守り、終わると穏やかに拍手を贈った。その様子は「厳か」と表現したくなるものだった。

アメリカでの反応も、これと似ていなくはなかったが、イギリスのファンよりもどこか開放的に感じられたほか、実際にはなかったものの「イエーイ!」という歓声や鋭い指笛の音がいつ聞こえてきてもおかしくないように思われたのである。

そのエンジン始動について、チーフメカニックの川畑 久に話を聞いた。「まずは燃料ポンプと点火系をオフにしたままスターターを回してオイルを循環させ、油圧が上がることを確認してから燃料ポンプや点火系をオンにします。ここでエンジンがかかっても、油温が低い状態で回転を上げるとエンジン内部のパーツが“かじって”しまうので、最初は4000rpmくらいで徐々に暖機していきます。その後、油圧計、燃圧系、水温計、油温計などを見ながら、あとは吹き上がり方やエンジンから立ち上る陽炎のような“メラメラ感”などを総合的に判断して回転数を上げていきます」

そのクライマックスが、「ウワンウワンウワン!」と激しくレーシングさせることにあるのは間違いない。「あのときはピークでだいたい1万rpmくらい回しますが、これも11号車と12号車では微妙に異なります。ウワンウワンウワンと回転を上下させるのは、まずは暖機をするのが第1の目的で、あとは吹き上がり方でエンジンのコンディションを見たりしています。昨日(8月16日)もエンジン始動をしましたが、今日のほうがだいぶ調子はいいですね。これには気温、湿度、気圧などが微妙に関係しているようです」

しかも、あの「ウワンウワンウワン!」は見ている観客のためでもあるという。
「お客さまはエンジン音を聞きにいらしているので、やはり、皆さんに気持ちいい音を聞いていただきたいという思いはあります」

では、エンジン始動のデモンストレーションでもっとも気をつけていることはなにか?
「エンジンを壊さないことはもちろんですが、それとともに安全ですね。万一、燃料が漏れ出たら火災になる恐れもあります。特に、お客さまが周囲を取り囲んでいる状態で火災が起きると大変なことになるので、そこはいちばん気をつけています」
 エンジン始動の際、ふたりのメカニックが必ず消火器を構えているのは、そうした安全性を考慮したうえのことだったのだ。

また、ラグナセカではこんな出来事もあった。

HondaがF1参戦を始めた1964年、Honda初のF1ドライバーだったロニー・バックナムの長男スティーヴと次男ジェフが、ラグナセかのHondaパドックを訪れたのである。スティーヴはRA272を懐かしそうに眺めながら、こんな話を聞かせてくれた。「私がまだ子供だったころ、(カリフォルニアの)ウィロースプリング・レースウェイでHondaがF1のテストしていた際に、RA272のコクピットに座らせてもらったことを覚えている」

さらにスティーヴは、「父ロニーはHonda F1が最初に優勝した1965年のメキシコGPの予選が終わった後に、同僚のリッチー・ギンサーとマシンを交換し、ギンサーは父ロニーが予選を走ったマシンでメキシコGPを優勝したのだ」と。

おそらく、幼い日のスティーヴがコクピットに収まったのは、父ロニーが乗っていたRA272-12号車だったはず。

しかし、その後リッチー・ギンサーのRA272-11号車がロニー・バックナムのRA272-12号車と入れ替えられたとしたら、いま目の前にしているRA272-11号車こそ、彼が子供のときにコクピットに座らせてもらったマシンそのものだったことになり、なんとも奇遇な物語である。

 

なお、アメリカ出身F1ドライバーのロニー・バックナムは、俳優でレーシングドライバーでもあったスティーヴ・マックィーンとかねてより交流があり、長男が生まれたときにはマックィーンに名付け親になることを頼んだという。つまり、スティーヴ・バックナムの名はマックィーンに由来していたのだ。

ちなみに、次男のジェフは父と同じレーシングドライバーへの道を歩み、2005年と2006年にはHondaエンジンでインディカー・シリーズに参戦したという記録も残っている。

第一期Honda F1とアメリカとの関わりは、これだけに留まらない。

1964年5月、つまり第一期Honda F1が初の実戦に挑む直前、インディアナポリス・モーター・スピードウェイに本田宗一郎の姿があった。このとき、本田はレーサー設計室の責任者である新村公男とともに訪米し、インディ500を視察していたのだ。さらに1968年11月にF1グランプリ最終戦のメキシコGPを戦い終えたHonda F1チームは、日本に帰国することなくアメリカ大陸に留まり、この年のF1マシンであるRA301でインディアナポリス・モーター・ウェイを走行。その詳細なデータを収集したのである。

そうした先人たちの思いやチャレンジスピリットは失われることなく受け継がれ、1980年代に入るとインディカー・シリーズ参戦の具体的な検討を開始。1994年シーズン、Hondaはついにインディカー・シリーズへのデビューを果たし、それから30年を経たいまもこのプロジェクトは続いている。その意味で、第一期Honda F1で培った経験は、いまもアメリカ大陸で息づいているといえるだろう。

ラグナセカでの走行はイベント最終日にあたる8月17日に、2度にわけて行われた。1度はランチタイムに行われたデモ走行「マクマーティ・エキジビション」に参加、そしてもう1度は往年のF1マシンが出走する「マリオ・アンドレッティ・トロフィー・レース」のフォーメーションラップで、レースに参戦するマシンの列をリードするというもので、こちらは午後2時過ぎに実施された。どちらも、HondaコレクションホールのテストドライバーとしてRA272などのレストアを長年見守ってきた宮城 光がステアリングを握った。

 

2回の走行は抜けるような青空と強い日差しの下で行われたが、エンジン始動自体はグッドウッドのときと打って変わり、あっけないほどスムーズに始動した。ひょっとすると、カリフォルニアの気候とRA272がよくマッチしていたのかもしれない。また、今回はエンジン始動から実際の走行まで3分近く待たされることもあり、オーバーヒートがやや心配な状況でもあったが、この辺は宮城の的確なスロットルワークにより難なくクリア。マクマーティ・エキジビションでは2分30秒から3分ほどのゆっくりしたペースでおよそ5周を、マリオ・アンドレッティ・トロフィー・レースのフォーメーションラップでも同様に1周を無事に走りきり、大役を勤め上げた。

走行を終えた宮城は、次のように語った。

 

「グッドウッドとラグナセカを走ることにより、Hondaとしてとてもいい発信ができたのではないかと思っています。なにしろ、海外ではほとんど走ったことのないマシンですからね」

宮城自身は、走行中、どんなことを考えていたのだろうか? 「コースのこと、マシンのこと、そしてお客さまにどんなサウンドが聞こえているだろうかなど、考えなければいけないことがたくさんあるので、余計なことに思いを馳せる余裕はありません。絶対にマシンを壊さないように、そして精度の高い走りをするように心がけています」

それでも、パドックに詰めかけたファンと対話するのは至福のひとときだという。「ものすごい関心を抱いて、ピットまでやってくるお客さまがいて、本当に驚きました。なかには、僕以上にこのクルマのことに詳しい方もいました。おかげで、こちらから一方的に情報を発信するのではなく、お客さまとキャッチボールができたことが、なによりも嬉しいですね」

60年間に及ぶHonda F1の歩み。グッドウッドとラグナセカでのイベント参加は、その歴史の重みを再確認する絶好の機会となった。そしてHonda F1の足跡は、さらに未来へと続いていくことだろう。