Goodwood Festival of Speed 2024

グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード 2024

Text by 大谷 達也

イギリス・モータースポーツを代表する聖地

ヨーロッパの自動車文化と伝統を代表するイベントのひとつ、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードに、F1初参戦から60年目を迎えた日本のHondaが招待された。

フェスティバル・オブ・スピードの初開催は1993年なので、それ自体が長い歴史を誇っているわけではないけれど、イベントを主催するのは英国貴族のリッチモンド公爵で、会場は公爵家に代々伝わる4452ヘクタール(およそ東京ドーム968個分)の広大な私有地と聞けば、おのずとその格式の高さが知れるだろう。

リッチモンド公爵家の私有地は、ただ広いだけでなく、その敷地内には公爵邸のほか、ホテル、競馬場、クリケット場、ゴルフコース、飛行場(旧英空軍基地)などが丘陵地に点在。夏ともなれば眩しいばかりに緑鮮やかな景色が目の前に広がる。

さらに興味深いことに、同じ敷地内にはヒルクライムコース(全長約1.9km)やモーターサーキットと呼ばれるレーシングコース(全長約3.8km)も設けられている。

これらは、現当主で第11代リッチモンド公爵チャールズ・ゴードン-レノックスの先々代にあたる第9代リットモンド公爵フレデリック・ゴードン-レノックスが建てたもの。20代の頃からアマチュア・ドライバーとしてレースを戦っていたフレデリック・ゴードン-レノックスは、友人から受けた「飛行場周辺の周回路をレーシングコースとして使ってはどうか?」とのアドバイスを聞き入れ、1948年にモーターサーキットをオープンしたとされる。なお、ヒルクライムコースの歴史はそれよりもさらに12年長いので、90年近い伝統を誇っていることになる。

こうした施設は1960年代以降、一般に公開されることはなくなっていたが、自動車文化に深い敬意を抱く現当主のチャールズ・ゴードン-レノックスは広大な敷地とヒルクライムコースを舞台とするフェスティバル・オブ・スピードを発案。さらにモーターサーキットでリバイバルやメンバーズ・ミーティングといったイベントを開催することで、グッドウッドは再び「イギリス・モータースポーツを代表する聖地」として注目されるようになったのである。

   

なかでも、世界中の歴史ある自動車ブランドがこぞって参加するフェスティバル・オブ・スピードは、各国でこれまで開催されてきたモーターショーが低迷するなか、新たな「自動車文化の社交場」としての役割も果たすようになっている。これほどに国際的で格式の高いイベントにHondaが招待されたのだから、それ自体が大変に栄誉なことであるのは間違いない。

こうした栄誉に、Hondaは最大限の敬意をもって応えることにした。

まず、1965年メキシコGPでHondaにF1初優勝をもたらしたRA272を現地に送り込み、ヒルクライム・コースでのデモ走行を実施することを決める。Hondaのヒストリックカーを保管・保守するホンダコレクションホールは2台のRA272を所蔵しているが、今回、選ばれたのは、リッチー・ギンサーの手で栄冠を勝ち取った11号車そのもの。さらに、土曜日と日曜日の2日間にわたって行われるデモ走行では、初日はホンダコレクションホールのテストドライバーでかつてHondaのワークスライダーでもあった宮城 光をドライバーとして起用。そして2日目は、ビザ・キャッシュアップRB F1チームから参戦中の現役F1ドライバーである角田裕毅にステアリングが託されることとなった。

すなわち、現役ドライバーの角田がおよそ60年前のRA272を操ることで、Honda F1の過去と現在を結びつけようとしたのだ。

なお、今年はオラクル・レッドブル・レーシングにとってもF1参戦20年目のアニバーサリー・イヤーにあたる。このため彼らは歴代のF1マシンをずらりと展示したほか、それらのほぼすべてをヒルクライムに挑ませた。

なかでも注目の1台となったのが2022年モデルのRB18。Hondaは2021年を最後にF1から撤退していたが、RB18に搭載されたレッドブル・パワートレインズ名義のパワーユニットが、ホンダ・レーシング(HRC)の技術支援の下に製作されたものであることは多くの人々が知るところ。このRB18で、オラクル・レッドブル・レーシングは2013年以来、10年ぶりとなるダブルタイトルを勝ち取ったのだから、Hondaにとっても記念すべきマシンであるのは明らか。したがって、RA272とRB18が相次いでヒルクライム・コースに挑むこともまた、Hondaにとっては歴史を振り返るという点で重要な意味を持っていた。

いっぽうで、Hondaのモータースポーツ活動といえば二輪レースのことも忘れるわけにはいかない。それどころか、Hondaがモータースポーツで世界の頂点に挑む歴史は、1959年の世界GP“マン島T.T.”で始まったもの。そこで、この伝説的なレースを戦ったRC142と、現在MotoGPに参戦中のRC213Vをデモ走行に投入し、半世紀を優に越すHondaモータースポーツの歴史を二輪と四輪の両面から多面的に表現したのである。なお、RC142は中野真矢が、RC213Vはステファン・ブラドルがそれぞれ搭乗した。

RA272としての走行初日の土曜日、ヒルクライムに挑む前のウォームアップがパドックで行われた。

 

フェスティバル・オブ・スピードに参加するF1マシンの多くは、ボールルームと呼ばれるパドックにHondaと軒を連ねるようにして展示され、ヒルクライムに出走する順番を待っていたが、RA272がエンジン始動を行ったときは、ほとんどすべてのマシンがすでにコース脇の出走準備エリアに移動していた。しかも、このときは混乱を防ぐ目的で、オフィシャルの手でRA272から10mほど離れた場所にロープが張られており、観客はその後方に控えていた。

観客の前に引き出されたRA272のコクピットに宮城が収まると、メカニックたちの手でエンジン始動の準備が手際よく進められていく。その様子を、固唾を呑み込んで見守る観客たち。続いてチーフメカニックの川畑 久の指示によりクランキングすると、排気量1.5リッターのV12エンジンは間髪おかずに目覚め、「フワン!」とも「クォン!」ともつかない甲高い音色をあたりに響かせ始めた。やがて川畑からスロットル操作を委ねられた宮城は、「ウォン、ウォン、ウォン!」と鋭くエンジン回転数を上下させると、再び川畑の指示でエンジンを停止。あたりにはつかの間の静寂が訪れた。

すると、それを見ていた観客の間から、誰ともなく拍手が沸き起こった。コクピットから降り立ち、彼らに手を振ってから一礼する宮城。そこには、およそ60年前に作られたF1マシンを媒介として、見る者と見られる者の間に何らかの心の交流があったように思われた。いや、このとき観客から贈られた拍手は、ひょっとするとRA272を作り上げた技術者たちに捧げられたものだったのかもしれない。

デモ走行の時間が迫ってきた。RA272はメカニックたちの手で押され、スタートの準備エリアに移動する。やがて、同じタイミングで出走する参加車が揃ったところでヒルクライムコースを逆走し、スタート地点に向かっていくのだが、RA272のみエンジンがかからない。さっきは、あれほど快調にウォームアップをしていたのに……。

川畑らは焦ることなく、何度も手順を確認しながらエンジン始動を試みる。それでも、Honda V12は息を吹き返さない。2度、3度、4度……。何回か繰り返したところでエンジンがかかった! この幸運を逃すまいと、宮城は素早くスタート地点に向かった。

「皆さん、当たり前のようにエンジンがかかると思っていらっしゃるかもしれませんが、実はエンジンがかかるだけでもRA272にとっては奇跡のようなことなんです」
川畑が打ち明ける。なるほど、それはそうだろう。60年前の技術者たちは、ただひたすら速いF1マシンを作りたいと願ってRA272を生み出した。60年後もこのクルマが走っていることなど、彼らには想像さえできなかったことだろう。

 

ましてや、ホンダコレクションホールの所蔵車は、できるだけオリジナルの状態を保つのが基本。最新の技術で作られたパーツを使えば、もしかしたらもっと楽にエンジンをかけられたかもしれないが、それはHondaの考え方とは相容れない。そうした環境で、しかも海外のイベントでRA272のエンジンを時間通りに始動させるのは、川畑がいうとおり「奇跡のようなこと」だったのかもしれない。

そんな不安は的中し、いよいよヒルクライムに挑むという段になっても、RA272のエンジンは不機嫌なままだった。見ているこちらのほうが焦りたくなる状況のなか、川畑たちは粘り強く作業を繰り返す。念のため、補助バッテリーを別のエントラントから借り出してきて試してみるが、これもダメ。駆動系のかみ合いを変化させるためにマシンを前後に揺さぶっても、うまくいかない。最後は押し掛けを試みたが、それでもエンジンはかからない。やがてオフィシャルの指示により、スタート地点近くの別の空きスペースに移動するが、そこでも川畑らは黙々と作業を続けた。気がつけば、その様子を見ようとして観客が集まっていた。

それからどれほど時間が経ったことだろう。思いがけずRA272は蘇り、甲高いエグゾーストノートをあたりにまき散らした。それを見て、またも観客たちは拍手を贈る。宮城は1速ギアを選ぶと、エンジン回転数をキープしながらていねいにRA272を発進させた。やがて、そうでなくとも小さなRA272の後ろ姿は、どんどんと遠ざかっていった……。

こうして、初日はまさにギリギリのタイミングで走行を終えることができたのである。

走行2日目は角田をドライバーに迎える。そんな情報を聞きつけた多くのファンがRA272の展示エリア前に集まってきて、二重、三重の人垣を作っていく。さすがの人気ぶりだ。

やがて角田が登場。ファンの求めに応じて次々とサインをこなしていく。ちなみに、角田がRA272と対面したのはこのときが初めて。角田は目をキラキラと輝かせながら純白のマシンを見つめる。続いて、手早くシート合わせを行うと、宮城からコクピットドリルを受ける。あとで角田に聞いたところ、宮城のアドバイスが実に的確で、これが走行の際に大いに役立ったという。

このときも、RA272のエンジンは簡単には目覚めなかったが、それでも前日に比べれば、実にあっさりと始動。角田は予定どおり走行をこなしたのである。

ヒルクライムを終えた角田に話を聞いた。

「ひとつひとつのプロセスをていねいに行わないとスタートできないのは、やはり最高を極めたF1ならでは。いっぽうで、走り出してからの気持ちよさとダイレクト感は現在のクルマとは比べものにならないほどで、強い一体感を味わうことができました。しかもタイヤやエンジンから伝わってくる振動が本当に心地いい。それと、宮城さんから聞いたアドバイスがとても適切で、その言葉通りに労って走らせたら、クルマも気持ちよく応えてくれたような気がします。あと、RA272は今回が初めてで、かなり慎重に走らせたので、2回目はもう少し楽しみながらドライブしたいと思います」

ただし、幸か不幸か、角田に「2回目のチャンス」はやってこなかった。というのは、角田がRB18をドライブすることになり、RA272には、宮城が搭乗することになったからだ。

すべての走行を終えた角田は、この日の印象を次のように語ってくれた。

「HondaのF1参戦60周年を祝うイベントで、RA272というウイニングマシンをドライブできたのは、すごく光栄なことです。そして、およそ60年のときを経て作られた2台のF1マシンを運転できたのも、まるでタイムスリップしたかのような体験で、とても新鮮でした。もちろん、RA272とRB18ではまったく別のクルマですが、その時代時代で極限の技術を追求したという意味では、共通点もあるような気がします。とにかく、初めてのグッドウッドはとても楽しく、また挑戦したいと思いました」

こうしてHondaのF1参戦60周年を祝福するフェスティバル・オブ・スピードは無事に幕を閉じた。数々の名門チーム、名門ブランドに囲まれたHondaが、予想を超える多くのファンに温かく迎え入れられたのは、60年前にはF1に関する情報などほとんどなかったに違いない遠い東洋の島国からモータースポーツの頂点に挑んだ、その勇敢さが称えられたからだろう。

Hondaのチャレンジ精神、そして長い伝統は、ヨーロッパの歴史ある自動車メーカーと比べても何ら遜色がない。グッドウッドでの歓迎ぶりは、人々のそんな思いを反映しているかのようだった。