その後も、Hondaは車いすレーサーの開発を着実に進めていきます。年ごとに新たなモデルを製作し、アスリートたちへ提供することで、多くのレースで彼らに勝利をもたらしました。
HISTORY
Hondaと車いす陸上の歩み
太陽の家創設
Hondaと車いす陸上を支援する歴史のはじまりは、大分の整形外科医「中村 裕(ナカムラ ユタカ)」医学博士の想いに遡ります。
当時は、障がいを持つ人たちが働くこと、社会に出ることすらも難しい時代。障がいを持つ人の本当の幸せとは生産活動に携わり、社会人として健常者と共に生きることにあると考え、1965年「太陽の家」を支援施設として創設しました。この活動が後にHondaと車いす陸上を結びつけることにつながります。
太陽の家と本田宗一郎
1978年1月、本田宗一郎は特別な出会いを経験します。それは太陽の家、そして中村博士との出会い。中村博士の案内で施設を見学していた本田は「どうしてだ?涙のやつが出てきてしょうがないよ」と語ったのち、力を込めた声で「よし、やろう。Hondaもこういう仕事をしなきゃだめなんだ」との決意を言葉にします。ひとつの出会いから大きな挑戦がはじまった瞬間でした。
当時わが国の経済は、世界経済の同時不況、欧米諸国との貿易摩擦に端を発した輸出の低迷に苦しみ、国内では個人消費の伸び悩みにより、企業は産業活動の停滞を余儀なくされていた状況でした。
しかし、そのような状況下にあっても、中村博士の理想に共鳴し、障害を持つ人たちに就業の機会を与えたいという想いによる決意は強く、「ホンダ太陽」設立へと進んでいったのです。
ホンダ太陽設立
1981年9月「ホンダ太陽」が「障がいのある人たちの社会的自立の促進」という理念のもと本田技研工業株式会社の*特例子会社として設立されました。
働く人一人ひとりが、障がいの有無に関係なく持ち味をいかし、仕事を通して社会の役に立つ「世界のモデル企業」となることを目指す企業として、産声を上げました。太陽の家との出会いからわずか3年のことでした。
*ホンダ太陽が本田技研工業の特例子会社としての認定を受けたのは、1982年5月26日
第1回大分国際車いすマラソン
ホンダ太陽設立の同年、中村裕博士らの尽力によって世界初となる車いすの方だけによる国際的なマラソン大会が、世界で初めて大分で開催。
当時、競技用車いすはなく、生活用の車いすでのレース。参加国15か国、117名となったこの第1回大分国際車いすマラソンに一人の熱い想いを抱いた選手がいました。実はこの選手、かつて本田宗一郎と車いす陸上について語り合ったことがある仲。のちにこの選手が車いす陸上への情熱をそのままに「ホンダ太陽」へと入社することになります。ここから、Hondaと車いす陸上の繋がりは始まりました。
挑戦が胸を打つ
一人の選手の情熱に、支援の輪が拡がりはじめます。彼の想いの強さに突き動かされ、ホンダ太陽の従業員、総勢12名となる自己啓発グループ「車いすレーサー研究会」が発足。当初は身体強化トレーニングを行い数々の大会へ出場する活動でしたが、それだけでは満足できず、自分たちが乗る陸上競技用車いすをつくることを目指すようになります。その活動に深い感銘を受けた本田技術研究所の技術者が協力し、「世界一軽い陸上競技用車いすを製作する」という目標へと拡大。陸上競技用車いすをつくるノウハウがないメンバーがボランティアで行い、わずか1年でプロトタイプのオールアルミ製車いすレーサー(陸上競技用車いす)をつくりあげました。一人の情熱が周りの人の心を動かしたのです。
ホンダアスリートクラブ誕生
1999年4月、「車いすレーサー研究会」の活動がホンダ太陽およびホンダR&D太陽内の公式クラブとなり、「ホンダアスリートクラブ」と名付けられました。これまで関わってきた一人ひとりの情熱が会社を動かしたのです。公式活動として認定されたクラブは、その活動を更に強化していくことになります。
本田技術研究所が開発着手
2000年には本田技術研究所の開発アイテムに陸上競技用車いすレーサーが追加され、選手からのフィードバックを受けながら試行錯誤を繰り返し、開発を推進。
試作第1号
ホンダ太陽が本田技術研究所の技術開発支援を受け、世界初となるフルカーボンボディの車いすレーサー、試作の1号車が完成。
「ホンダアスリートクラブ」の所属選手へ提供されました。ホンダ太陽の従業員が自力でレースへ挑戦したあの日から、ついに待望の自社製作レーサーを完成させるまでになったのです。
車いすレーサー 開発の推移
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2002
初のカーボンフレームを採用。
<主な戦歴>
大分国際車いすマラソン
フル:32位(宮平盛男選手) -
2003
レーサープロジェクトが発足し、より本格的な開発環境に移行。
<主な戦歴>
大分国際車いすマラソン
ハーフ:1位(渡辺習輔選手) -
2004
転がり抵抗・軽量化の改善に挑み、初の車いす用カウルを作り上げる。その重量はわずか7.73kg。
<主な戦歴>
大分国際車いすマラソン
ハーフ:1位(渡辺習輔選手) -
2005
バケットシートを開発し、小型軽量ブレーキを搭載。
<主な戦歴>
大分国際車いすマラソン
ハーフ:1位(渡辺習輔選手) -
2006
新規アスリートメンバー2名のレーサーを製作。
<主な戦歴>
大分国際車いすマラソン
ハーフ:7位(上田隆司選手) -
2007
参加選手が自らレーサーを製作。
<主な戦歴>
大分国際車いすマラソン
ハーフ:1位(吉田高志選手) -
2008
山本選手向けに、デザインを一新。
<主な戦歴>
北京パラリンピック
フル:6位(山本浩之選手)
大分国際車いすマラソン
ハーフ:1位(渡辺習輔選手) -
2009
軽量で振動吸収性の高いカーボンフォークを採用。
<主な戦歴>
大分国際車いすマラソン
ハーフ:2位(渡辺習輔選手)
ハーフ:6位(佐矢野 利明選手) -
2010
タイプ別の車輪2種を製作。
<主な戦歴>
大分国際車いすマラソン
フル:3位
ハーフ:1位・2位 -
2012
<主な戦歴>
東京マラソン(車いすマラソン)
フル:1位(山本浩之選手)
3社共創による量産開始
車いすレーサーの開発・製造に、ホンダR&D太陽、本田技術研究所に加え、八千代工業が参加。3社共創体制となったことで、カーボンフレームを採用した車いすレーサー「極」の量産技術が確立されたのです。そして翌2014年には、八千代工業から量産モデルの「極<KIWAMI>」が、さらに翌2015年には、マイナーモデルチェンジを行った「挑<IDOMI>」の生産販売が開始されました。多くの方々に”乗る喜び”を体感していただける、市販レーサーを世に送り出すことになったのです。
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極<KIWAMI>
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挑<IDOMI>
Hondaブランドの車いすレーサー「翔(KAKERU)」登場
「ホンダアスリートクラブ」発足から20年となる2019年の4月、これまでの技術の粋を結集し、更なる高みを目指したレーサーモデル「翔<KAKERU>」を発表しました。
カーボン製モノコックフレーム、フロントフォーク、ディスクホイールを装備し、これまでにない形状のフレーム形状とステアリング機構を採用。勝利へと挑むトップアスリートたちの持てる能力を最大限に引き出す、次世代の車いすレーサーがここに誕生しました。
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翔<KAKERU>FLAGSHIP(2019年モデル)
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翔<KAKERU>STANDARD
さらなる活躍の舞台へ
車いす陸上競技の「困難な道をあえて選び『想い』でやり遂げ、一番を目指す」姿はHondaのDNAそのもの。全てのアスリートに勝利の笑顔を、世の中の人々に感動を届けるために。Hondaは、これからも夢にチャレンジするアスリートを応援し、精力的に支援活動を行ってまいります。
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翔<KAKERU>FLAGSHIP(2020年モデル)
翔<KAKERU>が2021年グッドデザイン賞を受賞しました。
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Hondaは、夢にチャレンジするアスリートたちを応援し、
さまざまな面で彼らをバックアップしています。