Keyword 02

Honda F1黎明期の影の立役者、ジャック・ブラバム

© Alamy

Sir John Arther Brabham
サー・ジョン・アーサー・ブラバム

Hondaが敬愛した“ブラさん”の真実

第1期Honda F1プロジェクト・メンバーは、その人を「ブラさん」と呼んで、尊敬と親しみを抱いていた。歴史的F1チャンピオン・ドライバーのジャック・ブラバムである。1960年代のHonda F1チームは、親しくなったドライバーをファーストネームで呼んだが、日本流のニックネームをつけたのはブラさんだけであった。

しかし実はブラバム自身、Honda F1でグランプリレースに一度たりとも出場していないのである。それがどうして、当時のHondaの人たちがブラさんと呼ぶほどに敬愛したのか。ブラさんが、Hondaを表敬訪問した最初のF1チャンピオン・ドライバーだったというところから、その物語が始まる。

ブラバムがHondaに初めてやってきたのは1961年から1962年にかけての冬だったと伝わる。ヨーロッパのレースシーズンを終えて、母国オーストラリアへ帰国する途中に日本へ立ち寄り、Hondaを訪問したという。その時ブラバムは36歳になろうとしている老獪で勝負強いベテランドライバーであった。1959年と1960年に2年連続でチャンピオンを獲得したクーパー・チームから独立し、自身の名を冠したブラバム・チームを設立したばかりのことだ。それはF1グランプリの歴史上チャンピオン・ドライバーがF1コンストラクターを設立した初のケースであった。しかも1966年にはそのブラバム・チームで3度目のチャンピオンを獲得する。今日までのF1グランプリ75年の歴史のなかで、自身が設立したチームでチャンピオンになったドライバーは、ブラバムただひとりである。ドライバーのみならずチーム経営者としても成功する才覚があった。

© Alamy

1961年、2年連続王座に輝いた後、自身のチームを立ち上げF1に参戦したジャック・ブラバム。さらなる成功のためにHondaエンジンが必要と考えた。

当時のHondaは、スーパーカブの大ヒットで急成長し、世界最大規模の二輪メーカーになりつつあった新興メーカーだった。1959年に二輪国際レースへの本格的な挑戦を開始し、1961年にオートバイ世界選手権の2クラスでチャンピオンを獲得して、5クラス全制覇に王手をかけていた。しかしこの1962年時点では、まだ四輪の製造販売の旗揚げをしていない。それは翌1963年のことになる。とはいえHondaが四輪メーカーになれば、オートバイ世界選手権に次いでF1へ挑戦するだろうという噂はヨーロッパのレース界の間ではすっかり浸透していた。

そのようなHondaへ、なぜブラバムがやってきたのかは言うまでもない。「F1をやるならばブラバム・チームと手を組みましょう。いかがですか」というわけである。

F1王者にして強力なチームの経営者であったブラバムらしい慧眼があっての行動力であった。この初来日の時、Hondaがサンプルとして所有していたクーパーF1のキャブレターをセッティングして見せたという逸話も残している。

ブラバムホンダF1は実現ならずも

ブラバムはHondaとのリレーションシップを深めていった。Honda F1チームの初代監督となる中村良夫が事前交渉のためにパリにあったFIA(世界自動車連盟)とロンドン関係各所へ派遣された時は、自家用飛行機を操縦して案内人を務め、再来日した時はHondaが初めて開発したF1マシンであるRA270のテストドライバーをふたつ返事で引き受けている。

HondaがF1チャレンジにあたって、ブラバムとパートナーシップを組む胸算用を持ったのは当然であった。ブラバムホンダでF1グランプリに打って出るつもりだった。しかしチーム・ロータスのコリン・チャップマンがHondaへ強力な交渉を行ったことによって、その計画はご破算になってしまった。

その時ブラバムは、あわてず騒がす泰然自若な姿勢をもって、文句ひとつ口にしなかったと伝わる。その後ブラバム・チームは、アメリカのオールズモビルの地味なV8エンジンブロックをベースにして、母国オーストラリアの部品製造販売総合メーカーのレプコとF1用エンジンを共同開発し、見事に1966年王座を仕留めてみせた。

© Alamy

ブラバムとHondaがパートナーシップを結んで戦ったF2マシン、ブラバムBT18。非選手権を含むF2レース12連勝を達成。Hondaがスクール用に購入したF2シャシーもこのBT18だったと言われる。

さまざまな情報が飛び交い非常に複雑で、戦略的な動きが日々日常のF1グランプリの世界にあって、質実剛健なレース仕事をする苦労人のブラバムは、新進企業のHondaが心底から頼りにできる器量人であった。Hondaはブラバムの誠実な対応に恩義を感じ、開設したばかりの鈴鹿サーキットのレーシングスクール用に、ブラバム・チームから約20台のF2とF3用のフォーミュラシャシーを大量購入している。さらには1965年からブラバム・チームと組んでF2プロジェクトを実行した。Hondaは新開発の1000cc直列4気筒RA302E(F2)エンジンを供給し、そのブラバムホンダF2は1965年の4月から1966年10月まで2シーズンに渡ってヨーロッパ6カ国で開催されたF2レース19戦にエントリーし、12連勝という歴史的な記録を樹立したのである。ここにきてブラバムはHondaの盟友となった。あくまでも目立ちたがらず誠意をもって着実な仕事をする人物であった。

晩年までHondaに助言を尽くす

ブラバムは1985年に、英連邦王国オーストラリア国民として、イギリスのモータースポーツ界へ多大なる貢献をしたことで、イギリス王室から勲章を授与され、ナイト爵サーの称号が与えられた。2025年現在でイギリス王室のサーの称号が与えられたF1ドライバーは4人しかいない。

1970年にブラバムは44歳でドライバーを引退しチーム経営から手を引いて、オーストラリアで余生を楽しむ実業家となった。しかしHondaは、国際的な四輪レース活動については、事あるごとに具体的なアドバイスを受けて、その信用できる人脈を活用した。第2期のF2活動におけるラルト・チームやF1のウィリアムズ・チーム、ジョン・ジャッドと共同してのレーシングエンジン開発、NSXル・マン仕様開発など、枚挙にいとまがない。そして、その影響力は第3期F1活動にまで及んだ。

2014年に88歳で天寿をまっとうしたブラバムは、Hondaの国際的な四輪レース活動の恩人であり後見人であった。そのことをブラさんもHondaもひけらかすことがなかったので、知る人も少ないのが実情だった。

© Alamy

2000年日本GP開催時にも来日したブラバム(画像右から2番目)。F1でともに戦うことはなかったが、Hondaのレジェンド的存在だったことは間違いない。