第1期Honda F1を支えた6名のドライバー
© HRCロナルド・ジェームス・“ロニー”・バックナム
Honda F1在籍1964~1966年
新人バックナムとともにF1を学ぶ
第1期Honda F1活動の嚆矢となったレーシングドライバーは、ロニー・バックナムだった。
この28歳のアメリカ人ドライバーがRA271のステアリングホイールを握って、歴史的なHonda F1のデビューレース「1964年ドイツGP(ニュルブルクリンク)」を走った。それはバックナムにとって初めて走るF1グランプリだった。コンストラクター・チームとしてのHondaもそのドライバーも、どちらも新人だったのである。
この新鮮なパッケージは、もちろんHondaが考え出したことだった。
当初Hondaはベテランドライバーの起用を検討し、あるいはチーム・ロータスからエンジン供給を要請されていた時に、1963年にチャンピオンとなるジム・クラークがステアリングを握ることに魅力を感じていたが、結局、新人ドライバーと組んで、ゼロからF1グランプリを学んで戦っていこうと考えた。当時のHondaが得意とした「小さく生んで大きく育てる」という戦略的な考え方である。
そのうえで、アメリカ人ドライバーを起用したいというHonda営業部門の意向により、アメリカン・ホンダがアメリカ西海岸のスポーツカーレースで連戦連勝の活躍をしていたバックナムを抜擢した。時に、Hondaは全力をあげてスポーツ二輪商品のアメリカ市場開拓に取り組んでおり、アメリカにおけるブランドイメージを向上させるための手法だった。こうしたドライバー選びはHondaにかぎったことではなく、アメリカ市場でスポーツカーを販売するフェラーリもポルシェも、市場拡大のために積極的にアメリカ人ドライバーを起用していた。
ちなみに当時のHondaが日本人ドライバー起用を考えたかといえば、その発想すらできない時代であった。当時の日本人でF1どころかF2でもF3でも本格的なフォーミュラカーレースに出場していたドライバーはひとりもいなかったからだ。
© HRCポール・リチャード・“リッチー”・ギンサー
Honda F1在籍1965-1966年
ギンサーがHonda F1初優勝ドライバーに
Hondaは1964年のF1デビューイヤーで技術的な力量を試しながら戦い、勝利できる見通しが立つと、さっそく翌1965年は2カー・エントリーのチーム体制をとった。
そこでHondaチームに加わったふたり目のドライバーが35歳のリッチー・ギンサーである。またしてもアメリカ人だが、ギンサーには5年間のキャリアがあった。1960年にフェラーリでF1にデビューして2年間活躍し、1962年からの3年間はBRMチームで走っていた。この時点まで優勝経験はなかったが、2位を6回、3位を5回獲得しており、ドライバーズ選手権ランキングは1963年が2位、1964年は4位だった。新参のHondaにとって、マシン開発ができる経験を積んだ申し分のないベテランドライバーであった。
この起用は見事に当たった。1.5ℓ時代の最終レースとなった1965年メキシコGPで、ギンサーとHonda RA272が見事勝利したのである。スタートでトップを奪うと、そのままレースをリードした勝利だった。実力をいかんなく発揮したHonda F1初優勝であった。
3ℓ時代の幕開けとなった1966年も、バックナムとギンサーが継続してドライバーを務めたが、Hondaが3ℓマシンRA273の開発に手間取ったために、後半の3レースしか参戦できなかった。
© HRCプロデューサーでもあったサーティース
翌年1967年のHondaはチャンピオン獲得に懸けてチーム体制を一新した。史上唯一人の二輪&四輪世界チャンピオンであるイギリス人のジョン・サーティースとパートナーシップを組んだのである。欧州の拠点も二輪グランプリ以来のオランダ・アムステルダムから、サーティースのお膝元であるイギリス・ロンドンへ移転し、チーム・サーティースおよびローラ・カーズ社と協力関係をもってHonda F1の設計開発と組み立て整備をおこなう工場を開いた。
当時33歳にして冷静沈着なサーティースの存在は、ドライバーという枠を超えてHonda F1をプロデュースする役目も果たす。ロンドンに駐在したHonda F1チームの監督である中村良夫とサーティースは、チャンピオン獲得を狙う盟友となって友情を育み、強固な信頼関係を築いた。このパートナーシップのなかで、エンジン開発を日本のHondaが行い、シャシー開発をロンドンで行うマシン開発の新体制が生まれた。
© HRCジョン・ノーマン・サーティース
Honda F1在籍1967-1968年
新体制の最初の成果が1967年のイタリアGPにおけるHonda RA300のデビューウィンであった。第1期Honda F1活動2度目の勝利である。
この優勝で勢いをつけたサーティースと中村は1968年のチャンピオン獲得にむけてHonda RA301を開発する。その一方で、本田宗一郎を中心とする日本の本田技術研究所は自然空冷F1路線を突っ走りRA302を開発した。2機種のHonda F1が登場し混乱した1968年は、サーティースにとって無念なシーズンになった。不運なレースが続き、チャンピオンどころかドライバーズ選手権ランキング7位に甘んじなければならなかったうえに、そのシーズン終了後にはHonda F1チームが活動休止を発表してしまい、Hondaとともに見た未来の夢を失った。
1968年にはサーティース以外3名が起用される
1968年は1レースのみHonda F1で決勝レースに出走したドライバーが3名いた。Honda RA302のドライバーに抜擢されてフランスGPに出場したジョー・シュレッサーは40歳のフランス人であった。29歳のイギリス人であるデイビッド・ホッブスは、サーティースの推薦でHonda F1チームのナンバー2ドライバーに選ばれてイタリアGPに RA301で出場した。スウェーデン人の富豪ドライバーであった38歳のヨアキム・ボニエは、最終戦メキシコGPで自身のマシンを壊したために、決勝レースでRA301のスペアカーをレンタルしている。最終戦だったということもあり、HondaはF1ドライバーズ協会の会長であったボニエのレンタル要請に快く応じた。ところが、このレースではサーティースがリタイアしてしまい、ボニエが5位に入賞した。第1期Honda F1活動で、これが最後の入賞記録になった。
以上の6人が第1期Honda F1ドライバーである。まさに多士済々の1960年代F1グランプリシーンであった。
© HRCジョセフ・シフェール(写真右からふたり目)
Honda F1在籍1968年
© HRCカール・ヨアキム・ヨナス・ボニエ
Honda F1在籍1968年
© HRCデイビッド・ウィシャート・ホッブス
Honda F1在籍1968年