1992年に発売された「CB1000 SUPER FOUR」を端緒としてスタートした「プロジェクトBIG-1」は、30年以上たった今も多くのファンを魅了し続けている。2022年には30周年を記念して「CB1300 SUPER FOUR SP 30th Anniversary」と「CB1300 SUPER BOL D’OR SP 30th Anniversary」が受注期間限定で発売された。そこで、初代モデルの開発に関わったスタッフに集まってもらい、BIG-1に込めた想いについて改めて聞いた。
1980年代の終わり頃。日本中を熱狂させたレーサーレプリカブームは陰りを見せ始めていたものの、高性能を象徴するスペックとフルカウルのスポーツモデルは未だ隆盛を極めていた。
そんな中で、Hondaは400ccのハイパフォーマンスネイキッドの『CB-1』を1989年に発売。その後、普遍的なバイクの形を再認識させる各社ネイキッドモデルは人気を集めることになる。
そしてそれらの成功を礎に、排気量をあげ750cc、さらにはリッターオーバーのモデルが発売され、フルカウルのレーサーレプリカに抵抗を感じていたユーザーを取り込もうとしていた。
1988年に国内で販売される二輪車における上限排気量の自主規制が撤廃されたことも、大型バイクブームの呼び水になった。
当時既に“ナナハン”はマジックナンバーではなくなっていた。
1990年ごろは時代の転換点だったのだ。
当時のHonda車のラインアップは、V4モデルやフルカウルを装備したCBRシリーズを頂点とした構成で、CBブランドを強烈に印象付けるようなスタンダードなビッグバイクがありませんでした。社内で後輩たちのバイク談義などを聞いていても他社の逆輸入直4モデルのことばかりで、その現実に憤りさえ感じていました。
自分の原体験にCB750FOURやCBX(1000)、そしてCB1100Rなど、Hondaと日本を誇らしく感じる直4モデルがあったのは事実で、プロジェクトBIG-1はそんなモヤモヤした気持ちが基点となって始まったのです岸
初代CB1000SUPER FOUR (以下SF)<1992年>のデザイナーである岸敏秋はこう振り返る。
プロジェクトBIG-1は “こういうバイクを世に出したい”と、岸が考えたデザインスタディが発端だ。それは、CB-1の車体にCB1100Rの燃料タンクを載せたラフスケッチだった。
CB-1は、クラス最高のハンドリングを実現しようと開発されたものの、販売面では後に登場した各社のネイキッドモデルに叶わなかった400ccネイキッドモデルだった。
当時のデザイン現場の責任者だった中野耕二がそれを見て、“おっ、いいね!”と共感してくれて、こんな感じの直4の大型バイクができたら……と話が膨らみ、通常業務の合間にCBR1000Fのエンジンをベースにした非公式のアイデアスケッチを展開する機会を貰いました岸
件の中野は、とあるバイクユーザーから“ビッグバイクといえば勇ましい感じで音も良いイメージ。Hondaはバイクの選択肢は多いけど、中心は250と400の会社だと思う”という感想を聞かされ、大きなショックを受けたと言っている。
ここから、中野と岸はお互いのイメージをぶつけ合って、新しい直4ビッグバイクのデザインを具現化していった。
中野もまた、時流に合ったビッグバイクが必要だと強く感じていたひとりでした。それで、非公式のプロジェクトにも関らず、多くの開発者の目に触れやすいようデザイン室の一等地でクレイモデルの検討を始め、社内の機運を盛り上げようとしたのです。そしてその目論見通り、社内の賛同者が徐々に増えて行きました岸
岸は、フルカウルの中に隠されていたCBR1000Fのエンジンのほぼ直立した無骨なシリンダーに造形の美しさを見出し、これを少し手直しすればネイキッドモデルのエンジンとして立派に通用するはずだと感じていた。
また、“相手にするのは750ccではなく、中古の大型モデルと逆輸入車だ”という中野らの考えの下で造形されたクレイモデルは、前後18インチタイヤを履いた大きなものだった。
その時点でホイールベースは1520mmという当時ではあり得ないほどの大きなサイズであり、新たなHondaのビッグバイクとして天下無双というべきフォルムを実現していた。
そして、このクレイモデルは開発現場からのいわゆるボトムアップ企画として期待を込めて社内提案された。
しかし、“新技術のない2本ショックのモデルでは、欧米での売り上げ台数が見込めない”という営業的な見地から却下されてしまったのである。
悔しかったですね。評価者である役員からは“(用は済んだのだから)いつまでも置いておくな”と言われましたが、我々には確信があり、どうにかして世に出したいという思いがあったので、クレイモデルを廃棄せずにデザイン室の小部屋に隠して手を入れ続けました岸
ちなみに、CB-1の車体を使った最初のスケッチは、CB400 SUPER FOUR(以下SF)の誕生にもつながったのだが、このCB400SFがあったからこそCB1000SFは世の中に出ることができたといってもいい。
CB400 SUPER FOURは、旺盛な需要に支えられていた1990年代初頭の国内専用機種として、CB-1の後継機に位置付けられた「プロジェクトBIG-1」を構成するモデル。CB1000 SUPER FOURをイメージリーダーとしながら一足早く1992年3月に発売。直4の高性能とエモーションを手の内で楽しめる、CBらしさを体現する名機として400㏄クラスの中核を担ってきた。CB1000 SUPER FOUR同様たゆまぬ進化が図られ、2022年に生産終了。
──LPL(開発責任者)を務めた原国隆が言う。
私もクレイモデルを見て“これはデカい!迫力がある!”と、賛同したひとりでしたし、“最近は大人の乗るバイクがない”と感じてもいたのです。
それで、社内に反対意見があるのならお客様に直接問うてみようと、すでに開発が進んでいたCB400SFのイメージ訴求という位置づけで、東京モーターショーに参考出品することになったのです。そうしたら、誰もが食い入るようにBIG-1に見入っていて──1968年にCB750FOURが登場した時と同じ反応でした。もうお客様の目の色が違うんです原
来場者の熱量を感じましたね。自分たちとお客様は共感できている、と感慨深い光景でした岸
文字通りBIG-1と言うべき堂々とした車格は、“大きい、迫力がある”というインパクトによって受け入れられた。
その頃は、毎日のようにデザイン室にいて、どういうバイクにすべきかみんなと話していました。 “乗っていてドーンッとくるのがいいね”“燃料タンクも太いからドーンッとくるね”なんて、擬音を交えながら好き勝手なことを言っていました──私自身は自己主張のある“太い走りのバイク”にしたかった。
私にとってCB750FOUR・K0 がCBの原体験だったのですが、“乗れるものなら乗ってみろ”っていうくらいの存在感がある直列4気筒モデルが私にとってのCBであり、それに対して畏怖を感じながらも乗りこなしてやろうとすることが、バイクに乗る喜びなのではないかと考えたのです。
だから、デザイナーが拘った18インチは守り通したかった。タイヤサイズは車体のサイズを決める大きな要素です。当時、大型車用の18インチタイヤはイギリスのエイボンしか作っていなかったし、18インチに対する反対意見も小さくなかった。しかし、そういうことも含めて、“Hondaは失敗を恐れずチャレンジする会社じゃないか”と押し通したのです原
当時、V4モデルを中心に完成車テストを担当していたが、後年になってCB1300SFを手掛けることになる工藤哲也は、1000SFに乗った時のインパクトをこう語る。
その頃のHondaのスポーツモデルはカウリング付きのCBRやV4のラインアップが中心で、王道であるネイキッドのCBがなかったのです。自分も“CB”を色々と探し、結局CB750FOUR・K2が気に入って乗っていましたが、1000SFを最初に見た時は“こんなデカいの、どうするんだ!?”って思いましたね。でも、とてもトルクフルで、原の言う“太い走り”は感覚的に理解できました工藤
実は、クレイモデルの最初の頃は『ディアブロ』というネーミングでしたが、開発が進んでいくうちに “でかいな!これは。それならビッグワンだな”ということになったのです。とにかく、岸がデザインしたタンクの形と色が良かったし、競合モデルのことなど一切考えていませんでした。
性能だけではなく、形にも官能はあると思うんですよ。当時“感動性能”という言葉で訴求しましたが、そういった数値で測れないような領域は“こうだろう、こうありたい”という自分の価値基準で進めたのです。そんな時はもう、自分自身の感性がCBそのものだったんです原