明けて1951年3月、本田は、浜松から河島を呼び寄せる。
「『河島、ちょっと来い』が、そのまま2カ月の長期出張。東京工場の片隅でE型の4ストロークエンジンの設計をやりました。図面がやっとできたところへ、おやじさんが、勢い込んで藤澤さんを連れて来たんですよ」。
5月のその日のことを、河島はよく覚えていると言う。
1992年4月1日、鈴鹿サーキット内にてドリームE型に乗る河島喜好。河島は1951年7月に自らエンジンを設計したドリームE型で、箱根越えテストをやり遂げた
「設計図を藤澤さんに見せながら、『これはな、こういうバルブがあってカムでこう動いて、これがエンジンってもんなんだ、2ストロークみたいに竹筒っぽに穴開けたようなシロモノじゃないんだ』と熱弁をふるう。『これなら売れる。これでHondaは伸びるんだ』って。でも藤澤さん、図面見たって分からないから、『あ、そう、結構ですね、ほほう』だけ(笑い)」(河島)。
今や伝説となった"箱根越えテスト"が行われたのは、7月15日であった。
当時の日本車にとって、箱根はやはり"天下の険"だった。トラックなどは、途中、休み休み登るのが当たり前だった。150cc程度の小型2輪車にとっても、難路だった。
河島は、エンジン設計者兼その日のテストライダーだった。
「実は箱根峠は、だいぶ前から、僕らのテストコースだったんです。登れる自信は十分あったんですが、この日はおやじさんと藤澤さんが後を付いて来るんで、緊張しましたね。藤澤さんの目の前でオーバーヒートなんかしちゃったら、おやじさんの面目は丸つぶれでしょう。ちょうど台風の時で"豪雨をものともせず、トップギアのまま一気に駆け登った"とされてますが、雨と、水しぶきがジャージャーかかって運がよかった、空冷が水冷になっちゃってよく冷えたから、と、僕は冗談を言ってるわけです。トップギアで登ったといっても、変速ギアが2段しかないんだから、当たり前(笑い)。ま、それを考えれば、よく粘る、いいエンジンだったと思います」。
伝説では、本田と藤澤の乗ったビュイックを引き離し、先に登り切ってしまった河島と、頂上で3人が抱き合って喜んだとなっている。
「そりゃちょっと気持ち悪い(笑い)。こっちはカッパを着てズブ濡れだし。握手でしたよ」(河島)。