自動車王国アメリカに生産基地を築く
2輪車工場を運営する新現地法人の名称は、ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(以降、HAM)に決定し、1978年2月に設立された。
同法人の設立に際しては、アメリカのお客さまからいただいた利益を日本に持ち帰るのではなく、現地で再投資し、よりアメリカ社会に根付いた活動を展開したいとの考えから、資本金の80%をアメリカン・ホンダで出資し、残り20%を本田技研が出資することが決まった。ちなみに現在では、アメリカン・ホンダからHAMへの出資比率は、約97.6%にまで高まっている。
2輪車工場の建設発表を機に、日米に分かれて、工場の建設やインフラ整備の本格的な準備が開始され、HAMの社長としてアメリカで生産活動を指揮する中川和夫を中心に、企業活動のコンセプトづくりがスタートした。
オートバイを現地生産するには、日本の倍近くの資金と労力が必要とされる。利幅の薄いオートバイの現地生産を通じて利益を生み出す経営を行うには、何をなすべきかということが議論の俎上(そじょう)に上がった。Hondaは、お客さまに喜んで買っていただける高品質の製品を提供することが、企業活動の第一にあるという結論に達したのである。
オハイオでの活動をスタートするに当たっては、地域に根付いていくために、Hondaの考えや企業活動を行う上でのスタンスを明確に打ち出し、現地の人たちの理解を得ることが必要であると考えた。
また、HAMの従業員としてアメリカの人を採用する際には、日米間の企業風土をはじめとするさまざまな違いはあるが、Hondaが企業活動を始める趣旨や考えを彼らにしっかりと伝え、理解と共感を得ることが大事だと考えた。それには、まずHondaとして採用の考え方を整理する必要があった。
多くの議論を通して、従業員の呼び方については、アメリカで広く使われているワーカーと言った呼び方などではなく、共通の目的を達成するために活動する仲間という意味から、『アソシエイト』と称することが決定。
さらに、賃金体系やジョブローテーションなど、基本事項を明確にしなければならなかった。アメリカでは数多くの職種に対し、それに見合った賃金を支払うのが一般的であったが、HAMではその慣行を採らなかった。どの職種においても品質上の責任を担ってもらうことを職務の一端とし、職種や監督者の名称も新しく定め、従業員が仕事に対して誇りを持ち、かつチームワークが形づくられる配慮がなされた。工場内ではローテーションを前提とした同一賃金レートが決定されたのである。
最初に、工場運営の中核を担うアメリカ人マネジャーを採用した後、彼らとHAMの企業活動のコンセプトを十分に話し合った上で、オートバイの生産に携わる一般の従業員の採用活動を行うようにした。
従業員の募集は、新聞などで行わなかったにもかかわらず入社希望者は殺到し、その数は3000人を超えた。
「失業率が高い時期ではありましたが、Hondaと聞いただけで大変多くの応募者が集まる。Hondaが製品や販売を通じて築いてきた良いイメージがアメリカに根付いていると、改めて感じましたね」(中川)。
採用活動を中心となって推進したのは、吉田成美(HAM副社長)と岩本邦雄(同、総務担当マネジャー)であった。彼らは、HAMへの入社希望者一人ひとりに対して、Hondaがアメリカで生産活動を始める趣旨やHondaの活動方針とフィロソフィー、諸規則などを粘り強く説明するとともに、選考メンバー全員が賛成しなければ採用しないという方針の下に厳選採用を実施した。
その結果、採用したのはわずか50人だった。彼らは初めてオートバイの生産に携わる人たちばかりであった。Honda独自の考え方や活動を早く理解してもらうためには、オートバイの生産が未経験でも意欲のある人の方が良いとの考えが強かったからだ。
「『白い作業衣はやめてくれ。従業員全員が白い作業衣を着るなどアメリカの常識にはない』などと反発を受けたりもしましたね。けれども、白の作業衣は製品を傷つけないようにするためにボタンが隠されていること、汚れればすぐに分かるので、(生産活動を行う上での)清潔感を保つ気持ちを促す狙いがあること、などを説明すると、ほとんどの人は納得してくれました」(岩本)。
また、HAMではHondaの基本理念に則って、アメリカの生産工場では一般的であった、幹部に対する恩典的な制度は導入されなかった。全員が一斉に食事を取れるカフェテリア形式の食堂や、駐車場の先着順使用など、独自の福利厚生制度を導入したのである。