ファミリーバイクの先駆け
1970年代の初めごろ、2輪車のマーケットは危機的な行き詰まりをみせていた。軽自動車の普及に加え、暴走族の横行に伴う2輪車のイメージダウン、そして、高校生を対象とした三ない運動などが、2輪車需要に大きく影を落としていたのである。
バイクの大衆化路線の代表と言われ、世界的な大ヒット商品となったスーパーカブも、誕生してから既に15年が経過。そのユーザー層も固定化、高年齢化が進み、これ以上の市場拡大が困難な状況に陥っていた。
このままでは2輪市場がさらに縮少していき、Hondaにも重大な影響を及ぼしかねず、企業の存続をかけて、スーパーカブに代わる新しい需要を生み出す製品の開発が迫られていたのである。
そんな時期、和光研究所で4輪車のATミッションの開発を担当していた後藤勇は、久米是志(当時、技術研究所常務)から、2輪部門への突然の異動を告げられた。
「私はバイクに乗ることもできないのですが……」
といぶかる後藤に対し、
「いや、だからいいんだ」
という久米の言葉が返ってきた。
この時、後藤は、
「バイクマニアでない素人の眼で、もう一度2輪市場を見直し、バイクの大衆化に対するきっかけを探れ」
という久米の意図を感じたのである。
何から手を付けたらいいかも分からない状態の後藤に、3人の強力なスタッフが付けられた。いずれも2輪の車体・エンジン・デザインにおけるエキスパートであり、かつ異才ぞろいのメンバーであった。
早速、4人による開発チームが組まれ、新しいコンセプトづくりがスタートしたのである。