Hondaの将来を見据えた、二人そろっての爽やかな退任
専務の藤澤武夫は、1956年ごろから、2輪車で一応の成功を収めた本田技研が、将来にわたって発展し続けるためには、どのような企業形態が最適なのかを常に考えていた。
大部屋の役員室。課題や相談事などのスピーディーな解決は、このような話し合いの中から生まれた。左から2人目が河島
その一つとして藤澤は、
「本田技研から研究部門を分離・独立すべきである」
と提案し、当初は反対意見もあったが、時間をかけて議論を尽くし、1960年7月1日には、(株)本田技術研究所が設立された。
これは、1人の天才(本田宗一郎のこと)に代わる、集団としてのエキスパートの能力をフルに発揮するための仕組みづくりであった。と同時に藤澤は、自分たちトップの後継者の育成の必要性を痛感していた。藤澤は西田通弘(元、副社長)らに常々、
「創業者の1番大事な仕事は、次の世代に経営の基本をきちんと残すことだ」
と言っていた。
「これは藤澤さんの頭の中にずっとあったことだと思うのですが、創業者であるお二人が、いざ会社を去ろうという時に、だれに後をやってもらうかという的確な判断を行うことが、1番大きな仕事だと考えられていた。ですから藤澤さんは、後継者の育成を十数年かけて行われたのです」(西田)。
藤澤は、早くから取締役ではない若い部・次長クラスの数人を取締役会に出席させ、議題の内容説明や討議の輪に加え、意見を求めることを欠かさなかった。そのやり取りを通して彼らを鍛え、マネジメント力を養っていったのである。
1962年4月、河島喜好が34歳という若さで取締役に就任した。そして、その前後、1、2年の間に、本田技研には若い取締役が次々と誕生していた。その約1年後、河島は埼玉製作所長、川島喜八郎はアメリカン・ホンダ・モーター支配人、西田は外国部長、白井孝夫は技術研究所長と、後に専務となる4人のメンバーは、すべて部・所長を兼務していた。ある日、藤澤は彼らを本社に呼び、
「部・所長の兼務は、これをすべて外す」
との業務命令を下した。
——何をすればいいんだろうか——。
メンバーは皆、内心、そう思い悩んだ。昨日までは、各々の職責を果たすために忙しく働いていただけに、今回の人事の真意をメンバーが理解するまでに、3、4カ月の時間を要した。
「考えてみれば私たちは、部・所長の仕事はしていても、取締役としての仕事は何一つしていなかったんです。そのことを身をもって感じ取れるようにと、藤澤さんは、この人事を断行したのです」(西田)。
——取締役とは何なのか——。
そう考えるようになったメンバーに、藤澤は逆に、
「取締役とは何をすべきかを考えろ」
とのテーマを与えたのである。
毎日、メンバーは討議を重ねた。禅問答に近いテーマを抱え、メンバーは銀座のおでん屋や焼き鳥屋に足が向くことも、しばしばだった。
「本田さんと藤澤さんが、出会ってすぐのころ、お互いを知り合うために、まるで新婚夫婦のように常に行動を共にし、議論を重ねていました。Hondaが創立されて7年ぐらいまでの間に、Hondaの企業理念とも言うべきものが固まった。それと同じように、形こそ違いますが、私たちも、さまざまなことを議論し合い、お互いの性格までもが、よく分かり合えました」(西田)。
若手取締役たちは、役員室のオピニオンリーダー的存在として、Hondaの事業展開を自信を持って進めるようになっていった。