開発者の『想い』をカタチにしたこだわりのクルマ
HONDA1300(以降、H1300)が発売になった翌年の1970年夏。技術研究所では新たな4輪車開発のプロジェクトがスタートした。
そのころの日本は、高度成長期の真只中にあり、経済成長率は軒並み10%を超え、モノに対する人々の価値観も多様化しつつあった。インフラ面においても、オリンピックや万国博といった大事業の開催による交通網の整備により、自動車を中心とした都市型社会への急速な移行が図られた結果、日本は既に自動車生産高で世界第2位の地位を築くまでになっていた。
シビックの活躍の舞台は世界。街角に溶け込み、疾走するシビック
ところが当時のHondaは、N360の欠陥車事件や、H1300の販売不振などの中で悩み、苦しんでいたのである。
「鈴鹿へ行って、ラインを観てこい」。
プロジェクトがスタートする前段階に、技術研究所長(当時)の鈴木正巳は主だったメンバーに、そう声を掛けた。デザイン担当の岩倉信弥も、メンバーの1人だった。
──何だろうか。鈴鹿製作所(以降、鈴製)でつくっているH1300の売れ行きが、あまり良くないとは聞いているが──。
ところが、鈴製で生産ラインを観たメンバーの顔は見る見る青ざめた。
「ラインにはH1300がポツン、ポツンとしか流れていなかった。こんな状態なのかと、がく然としました」(岩倉)。
鈴製を訪れた他のメンバーも皆、同様に驚きを隠すことはできなかった。全員にのしかかる危機感は、和光へ戻る足取りを重くしていた。
「このプロジェクトが失敗したら、Hondaが本格的に4輪事業に進出するのは無理かも知れない、とみんなが思っていた」
と、シビック開発のLPLを務めた木澤博司が振り返るように、相次ぐ4輪車の不振は、Hondaの経済的な屋台骨を揺るがそうとしていた。そんな中、
「日本はもとより、世界市場を志向した自動車の開発に向け、それはどのようなものであるかを答申せよ」
という、とてつもなく大きなテーマが、鈴木からメンバーに与えられたのである。