モータースポーツの最高峰に挑んだ男たち 第1期 F1
「F1をやりたいんだよ。そのプロジェクトの面倒をみてもらいたい」。
1962年5月、埼玉製作所品質課長の杉浦英男に、研究所所長・工藤義人からの内示だった。
「F1って何ですか?写真で見たことはあるが、詳しいことは何も分かりません」。
「おれも知らない。君ね、だれでも最初は素人なんだよ」。
クーパークライマックスをモデルにして、鋼管スペースフレームでまとめられたF1試作車と本田
2人の間でそんなやり取りが交わされた。それほど、当時のHondaにはF1に関する情報がなかったのだ。わずかな手掛かりは、この半年ほど前に、研究所が手に入れた1台のF1マシン、イギリスのクーパークライマックス1.5Lのみであった。
1964年1月、HondaはF1レースへの出場を宣言。オートバイのマン島TTレースで完全優勝を成し遂げた時から、そろそろ次は4輪かなと、だれもが感じていた。そして、おれたちの技術をもってすれば必ず勝てる、という勢いが研究所にはあった。
その前年、軽トラック・T360と、小型スポーツカーS500を発売したとはいうものの、Hondaは4輪車の最後発メーカーである。にもかかわらず、国内のどのメーカーも参戦など考えもしなかったF1へのチャレンジを、あえて決断したのである。
1954年3月に出したTTレース出場宣言に謳われた本田宗一郎の熱き想い、『私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった』を、4輪車でも実現すべく、第一歩が踏み出された。
当時、F1のために集められた技術者はごく少数だった。しかも、4輪車の経験がない、2輪車のレースを担当していた者がほとんど。4輪車の研究・開発を始めるために中途採用した技術者、そして、大学新卒者もメンバーに加わった。陣頭指揮を執ったのは、もちろん本田である。
「エンジンの馬力目標は宗一郎さんが決める。出るか出ないかの理論はない。とにかく勝つためにはこれだけ出せ。RA270というコードネームは、『270馬力出すんだよ』と言って付けられたくらいです」(当時のエンジン性能担当・奥平(おくだいら)明雄)。