「一度優秀な外国製品が輸入されるとき、日本だけの日本一はたちまち崩れ去ってしまいます。世界一であって初めて日本一となり得るのであります」(ホンダ月報14号・1952年10月発行)。
本田宗一郎は創業後わずか4年目にして、世界一を目指す夢を語り、製品を世界的水準にまで高めること、世界市場で勝利を得ることを全従業員に求めた。
Hondaの海外展開は、2輪車の輸出から始まり、アメリカでの自前の販売網づくりなどを経て、世界各地での2輪・4輪・汎用製品の現地生産へと、積極的に企業活動の場を広げてきた。
それは、各地域のお客さまに喜んでいただける商品をタイムリーに提供するために、『需要のある所で生産する』という、Hondaの経営思想の具現化の歴史である。
1963年に米国で大反響を呼んだ『ナイセスト・ピープル・キャンペーン』のポスター
※ここに掲載したポスターは、1963年のオリジナルを基に、新規に制作したものです
1952年6月、カブF型を台湾などへ輸出したのが、Hondaの海外展開の始まりだった。同年10月には、ドリームを沖縄・フィリピンへ輸出、1954年9月には、ジュノオをアメリカに輸出した。
北米・中南米での展開
1959年6月、米国・ロサンゼルスに、アメリカン・ホンダ・モーター(AH)を設立し、Hondaの海外展開が本格的に開始された。AHでは、アメリカにHonda独自の販売網を築いて、2輪車市場の開拓に挑んだ。1969年にはN600をハワイで発売し、4輪販売の足掛かりをつくった。1986年3月、4輪第2販売チャネルのアキュラ店を設置した。
1978年2月、米国・オハイオ州にホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)を設立、1979年9月に2輪車の生産を開始した。1982年11月にはアコードの第1号車がラインオフ。日本の自動車メーカーとして初めて、アメリカでの乗用車生産を開始した。
1983年8月、米国・ノースカロライナ州にHonda初の海外汎用機工場、ホンダ・パワー・イクイップメント・マニュファクチャリング(HPE)を設立し、翌1984年8月に芝刈機の生産を開始した。
1986年11月からは、カナダのホンダ・オブ・カナダ・マニュファクチャリング(HCM・当時)でアコードの生産を開始した。
中南米での主な生産拠点は、ブラジル、メキシコ、ペルーにある。
欧州・中近東・アフリカでの展開
1961年6月、西ドイツ(当時)・ハンブルクに、ヨーロッパ・ホンダ・モーター(EH、現在のホンダ・ドイッチェランド)を設立し、欧州市場参入への足掛りをつくった。
1962年9月には、ベルギー・アールストにモペッドの生産工場、ベルギー・ホンダ・モーター(BH)を設立。この工場はHondaとしてはもちろん、日本の企業が初めてEEC域内に設立した現地生産工場である。
1979年12月、Hondaはイギリスのブリティッシュ・レイランド社(BL社・現、ローバー社)との技術提携調印を行うことで、欧州における4輪車生産の第一歩を踏み出した。1985年2月にイギリスのスウィンドンにホンダ・オブ・ザ・U .K .マニュファクチャリング(HUM)を設立、1992年10月には、欧州仕様のアコード第1号車がラインオフした。
1986年6月にはフランスのホンダ・フランス・インダストリアーレ(HFI・現、HEPE)で芝刈機、耕うん機の生産を開始した。
欧州ではイタリア、スペイン、トルコにも生産拠点を持っている。
中近東・アフリカの主な生産拠点は、パキスタン、イラン、ナイジェリアにある。
アジア・大洋州での展開
1963年、Hondaは東南アジアにおける企業活動の足がかりを築くため、シンガポールに事務所を設立して市場参入準備を進めた。
1964年10月には東南アジアにおける活動拠点として、タイのバンコクに、2輪・汎用製品の販売会社、アジア・ホンダ・モーター(ASH)を設立。翌1965年4月には、2輪車・汎用エンジンの生産拠点としてタイ・ホンダ・マニュファクチャリング(TH)を設立し、現地生産を開始した。
1992年8月には、ホンダ・カーズ・マニュファクチャリング・タイランド(HCMT)を設立し、乗用車の現地生産を開始。1996年4月に、新4輪車工場をアユタヤに建設し、アジア専用車・シティの生産を開始した。
アジア・大洋州の主な生産拠点は、インド、中国、マレーシア、インドネシア、フィリピン、台湾、ベトナム、ニュージーランド、オーストラリアにあり、その多くが現地パートナーとの合弁により企業活動を展開している。
1998年9月時点におけるHondaの全世界(日本を含む)生産拠点は34カ国102拠点を数えるまでになり、1年間に2輪・4輪・汎用の商品を通じて、世界中で出会うお客さまは1000万人に上る。